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第2部 性交の社会学 13.貨幣の絶対化 労働がよりどころとしていた肉体的な力が、その価値を失ったことは、実はもう一つの重大な結果を生み出している。 肉体労働の無化は、 人間存在の意味を、究極において決定していた価値をも失うことを意味するのである。 それは、人間のよってたつ最低の基盤=人間の価値そのものが溶融することを意味する。 人間社会の秩序、それ自体の崩壊につながりかねないのだ。 今までは、肉体労働を中心価値として、それをよりたくさん担う者を大切にしてきた。 そうすることが、種の維持にもっとも適していた。 人間は、自己を証明する価値を持たずに、生きていくことはできない。 そこで、喪失された価値は、近代社会において、労働と人間を結び付けていた媒介項へと、その基礎を移していった。 つまり、それは貨幣である。 近代社会といえば、貨幣がすべてと思われるかも知れないが、まだまだ生産を担 う人間こそ第一なのであった。 貨幣そのものの象徴である商業資本は、あくまで生産を補完するものにすぎず、ましてやサーヴィス産業や情報産業は、いまだ価 値の序列に組み込まれてさえもいなかった。 初期の工業社会までは、労働の質に対する問いかけがあった。 その結果が、量に換算された。 良質の労働の成果には、価値があった。 その結果として、多量の貨幣が支払われた。 しかし、労働の拠り所が崩壊したため、もはや、肉体労働それ自体が意義を失ってしまった。 価値は、直接に貨幣で計量される。 今や、労働の質に対する問いかけはない。 どんな仕事であろうとも、貨幣をたくさん集める方に価値がある。 初期工業社会までは、肉体労働はそれだけで、崇高なものだという暗黙の約束があった。 体を動かすこと、それ自体がよいことだった。 だから、家事労働も肉体労働であるが故に、それなりに、労働として認められた。 しかし、いまや肉体労働には意義がないのだ。 ただ、貨幣をたくさん持ってい るほうが、価値があるのだ。 その貨幣の入手方法は、不問である。 ここでも、貨幣で計量されることのない、家事労働の担当者=専業主婦は、労働の手ごたえを失う。 今までは、労働と労働をする人間とのあいだに、相関関係があった。 だから、労働することが自己の存在証明となった。 体を使って働いていさえすれば、一人前の人間として世の中を歩けた。 しかしもはや、労働から貨幣入手のプロセスが見えない。 発想の契機は、具体的な世界にあろうとも、頭脳は想像の世界を、脈絡もなく気ままに飛翔する。 どんな頭脳労働が、種にとって正の価値なのだろうか。 頭脳労働は、人間に働く手ごたえ、達成感をどのよ うに与えてくれるのだろうか。 肉体労働が支えていた価値の体系を、頭脳労働は支えられるのだろうか。 肉体と頭脳の背反に、人間は耐えられるのだろうか。 コンピューターの普及は歴史の流れだとしても、まだ、全世界がコンピューターによる生産段階にはいったわけではない。 つまり、女性が 台頭してない社会が、地球上にはまだたくさん存在している。 いやむしろ、男性の腕力が支配的な世界のほうが、いまだ圧倒的に広いのだ。 その現在、両者はどうやって平和裏に、共存していけばいいのだろうか。 労働の報酬は、もはや技術と腕力の積として、算出されはしないのだ。 次の世代は、何をめざして育てばい いのだろうか。 労働を支える価値が、肉体から頭脳に移っただけで、相変わらず貨幣は労働=頭脳労働の上に、おかれ続けるだろうか。 そうでなければ困るのだ。 けだし、量だけで質のない価値などは決して、価値たりえないのだから。 貨幣が絶対化して、価値となっていくことは、価値が人間から離れていくことすら意味している。 生きている人間と、その人間の価値は、人間とはまったく無関係の何かが、決める世界となるかも知れない。 神の手から価値を奪った人間 は、今、試練にたたされている。 |
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