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第1部 腕力支配の終焉 1.生きていくこと 今日のように、物があふれかえっていると、食べ物はいとも容易に手に入る。 そのため、生きていく=自らの生命を維持していくことは、たやすいことのように感じる。 しかし、人間の歴史を振り返ってみると、餓死者がでていた時代の方が、はるかに長かった。 太平洋戦争の前には、いつの時代でも、ほんの少しの日照りや冷夏が続くと、確実に誰かが飢え死んだ。 江戸時代は天明の飢饉の時(1780年頃)には、津軽藩の人口23万人のうち、8万人が餓死した。 この時は、生きている人間を殺して食べた、という記録がある。 たった50年ほど前には、冷害で不作が続くと、東北地方の農村から、少女が身売りされた。 かつての多くの日本人は、食料がなくて太れなかった。 いつも空腹だった。 腹いっぱいに食べることが、庶民の夢だった。 昔は、太っていることは、金持ちの証ですらあった。 その金持ちですら、今からみれば、実に質素な食生活であった。 ご飯に味噌汁、そして、野菜の煮物でもあれば、充分な献立だった。 今日のような潤沢な献立は、夢の世界のことだった。 すべての日本人が、食生活に不自由しなくなったのは、きわめて最近、ほんのここ2・30年のことである。 日本から離れてみれば、地球上では、今日でも餓死者が絶えない。 飢餓線上をさまよっている地域で、干ばつがおきると、まず生活力のない乳幼児が死ぬ。 次に、生命力の衰えた老人が餓死する。 そして、体力のない順番に死んでいく。 そこに住み続ける忍耐の限界を越えたとき、部落民全員が村を捨てて、放浪の旅にでる。 その部落は地球上から、永遠になくなってしまう。 餓死の発生を、流通の不備によるものと、断定してはいけない。 何故なら、とにかくそこには、食料がないのだから。 富の偏在や、流通の不備によって、食料が不足しているだけで、地球全体では今の人口を養っていけるというのは、生きている人間を見てない論である。 食料不足を、流通の問題として、かたずけるのではない。 その環境に置かれ、そこに生きざるを得ない当人の問題として、考えるのだ。 すると、世界は、生きている人間によって、構成されていることに気付くであろう。 日本人の子供全員が学校に通うようになったのは、義務教育の始まった1886年(もしくは1900年)からである。 この時でも、貧乏な家庭は、まだ修学を免除されたりしていた。 まがりなりにも、日本の子供全員が学校に通うようになるのは、明治も末になってからである。 それまでは、小さな子供も重要な労働力として、子供なりの仕事が割り当てられていた。 太平洋戦争以前には、家の仕事の手伝いが、子供に割り当てられていた。 主婦といったら、朝から晩まで、際限のない仕事に追いまくられていた。 もちろん、年寄りといえども例外ではない。 年寄りには、年寄りの仕事があった。 つい最近のことを考えてみても、家族の全員が働いていたことに、思いいたる。 多くの老人が、昼間からゲートボールに打ち興じる姿は、昭和50年頃には想像もできなかった。 ふつうの主婦のテニスなどは、社会が豊かになった、つい最近になって、出来るようになったのである。 私たちは、今という時代に生きているため、今を生きるのに必死である。 だから、ほんの2・30年前のことでも、簡単に忘れてしまう。 そして、自分の体験から踏みだして、未知の世界を想像することは、なかなか出来ない。 豊かな日本に生活していると、食べる物はあって当たり前としか思えない。 どこからか自然と湧き出している、とすら錯覚する。 しかし、日本がこうなるまでには、大変な苦労があったのである。 そして、これを維持するためには、時として他の国に擬制を強いることすらなくはないのだ。 今の日本は、ほんとうに豊かである。 しかしいまだに、飢餓線上をさまよっている人々は、地球上にたくさんいる。 第三世界の学校にいかない子供達は、自分のため家族のため、今この瞬間にも働いている。 今まではとにかく、生きていくことそれ自体が、厳しいことだったのである。 社会福祉もない、健康保険もない、失業保険もない、とにかく頼れるのは、自分の体だけだった。 そうした厳しいなかで、いかに人間が生き延びてきたか、素直に検証していこう。 |
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