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第2部 性交の社会学 6.擬制の血縁 かつては日本人の全員が、自宅で生まれた。 しかし現在、日本の新生児の99.9パーセントが病院で生まれている。 在宅出産であった時代には、その家には新生児は一人しかいない。 生まれた子は、その親の子に間違いはなかった。 病院ではそうではなかった。 同じような新生児が、何人もいるのである。 非常に不幸な偶然の重なりで、赤ちゃんが違う親の元に、引き渡されてしまうことがあった。 もちろん、これは例外であろう。 取り替えられた赤ちゃんを、病院の人から手渡されたとき、親とりわけここでは女親は、それに感づいたであろうか。 感づいたのであれば、 「この子は私の子ではない」 と、即座に拒否できたのだから、感づかなかったとしか言いようがない。 取り替えられた赤ちゃんを見ても、これが私の子かと思って、自然に愛情がわいてきたはずである。 そして、充分に可愛いと感じながら、 そのまま育ててきた。 それが、何かの拍子に血縁関係がないことを知って愕然としたのである。 病院での集団出産である限り、こうした事故をゼロにすることはできない。 出産した夫婦にとって、新生児が血縁的なわが子でなければ、愛情がわかないとしたらコトは重大である。 血縁が愛情を保証するとした ら、血縁以外では愛情がわかず養育できいなのだ。 もちろん、そんなことはない。 出産した瞬間に何らかの事情で、両親がいなくなっても、その子は育たない わけではない。 親の愛情は血縁という事実の上ではなく、それから一度抽象されたものの上に乗っているのである。 子を育てるのは、社会性を背負った親(=多くは血縁の親と一致していたに過ぎない)が育てるのであって、事実として血縁の親が育てるのではない。 換言すれば、社会の価値として抽象された結果=関係性が、愛情という形で表現されるのである。 自分が自分の親に、愛情をもって育てられてき たから、自分の子と思われる赤ちゃんに対して、誰でも愛情がわくのである。 だから、愛を教えられなかった人間は、愛をもてないのは当然である。 子を育てるのは、とりわけ母親が子を育てるのは、生き物の本能であるかの如くにいわれる。 高等動物の子育ては、きわめて文化的な行為である。 例えば、ある種の猿やライオンは、子を殺すことが知られはじめた。 新しく群れに入ったオスが、すでにいた子を殺すのである。 やはりオスは乱暴だ、 と即断しないで頂きたい。 子を殺されたメスは、ただちに発情し、自分の子を殺したオスと交尾するのである。 もし血縁という事実が直接、人間関係を支配して いれば、親が子を捨てることもない。 親子関係が多様に現れるのは、その間に想像力という繋ぎ手がいるからなのだ。 血縁の両親に育てられた子だけが正常で、それ以外は異常ということはない。 片親の子は性格が歪むと言うのは、片親の子は性格が歪んでほしいという大人の偏見である。 日本では、婚姻外の親から生まれる子は、きわめて少ない。 また、養子関係を公言することも少ない。 子を育てるのは、擬制の血縁関係にある親で良いのだ。 いままで、そう言われなかったのには、そうしなければならない、事情があっただけなのだ。 |
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