「性差を越えて」−働く女と男のための栄養剤
by  匠 雅音  新泉社から1992年刊

目    次         
はじめに
第1部
 腕力支配の終焉
1.生きていくこと
2.職種別の男と女
3.男と女の違いから
4.家事労働
5.力の役割
6.技術と腕力
7.肉体の賛美
8.労働の結果
9.劣性の無化
10.自己保身
11.産む性
12.アメリカ
第2部
 性交の社会学
1.男性性の確立
2.誕生の契機
3.勃起の背景
4.呪術の世界
5.弱き強姦
6.犠牲の血縁
7.近代の家族
8.結婚と家族
9.哀しき主婦
10.自立への恐怖
11.大胆な避妊
12.肉体の優先
13.貨幣の絶対化
第3部
 自立する頭脳
1.内在する神
2.奥義書の言葉
3.美の構築
4.価値の忘却
5.我を忘れる
6.痛いという言葉
7.体験という想像
8.鋭利な言葉
9.等しい男性と女性   10.男根欠損
11.買春の解放
12.今の男性から
13.二人の神
 
第4部
 想像力が飛翔する
1.敏感な部分
2.方法論の欠如
3.土着の稲作
4.墓と戸籍
5.内外を結ぶ
6.試行錯誤
7.事実と願望
8.若さの凋落
9.日本の女性たちへ
10.新しい価値

あとがき  

第2部    性交の社会学

6.擬制の血縁
 かつては日本人の全員が、自宅で生まれた。
しかし現在、日本の新生児の99.9パーセントが病院で生まれている。
在宅出産であった時代には、その家には新生児は一人しかいない。
生まれた子は、その親の子に間違いはなかった。
病院ではそうではなかった。
同じような新生児が、何人もいるのである。
非常に不幸な偶然の重なりで、赤ちゃんが違う親の元に、引き渡されてしまうことがあった。
もちろん、これは例外であろう。


 取り替えられた赤ちゃんを、病院の人から手渡されたとき、親とりわけここでは女親は、それに感づいたであろうか。
感づいたのであれば、
「この子は私の子ではない」
と、即座に拒否できたのだから、感づかなかったとしか言いようがない。


 取り替えられた赤ちゃんを見ても、これが私の子かと思って、自然に愛情がわいてきたはずである。
そして、充分に可愛いと感じながら、 そのまま育ててきた。
それが、何かの拍子に血縁関係がないことを知って愕然としたのである。
病院での集団出産である限り、こうした事故をゼロにすることはできない。

 出産した夫婦にとって、新生児が血縁的なわが子でなければ、愛情がわかないとしたらコトは重大である。
血縁が愛情を保証するとした ら、血縁以外では愛情がわかず養育できいなのだ。
もちろん、そんなことはない。
出産した瞬間に何らかの事情で、両親がいなくなっても、その子は育たない わけではない。
親の愛情は血縁という事実の上ではなく、それから一度抽象されたものの上に乗っているのである。


 子を育てるのは、社会性を背負った親(=多くは血縁の親と一致していたに過ぎない)が育てるのであって、事実として血縁の親が育てるのではない。
換言すれば、社会の価値として抽象された結果=関係性が、愛情という形で表現されるのである。
自分が自分の親に、愛情をもって育てられてき たから、自分の子と思われる赤ちゃんに対して、誰でも愛情がわくのである。
だから、愛を教えられなかった人間は、愛をもてないのは当然である。


 子を育てるのは、とりわけ母親が子を育てるのは、生き物の本能であるかの如くにいわれる。
高等動物の子育ては、きわめて文化的な行為である。
例えば、ある種の猿やライオンは、子を殺すことが知られはじめた。
新しく群れに入ったオスが、すでにいた子を殺すのである。
やはりオスは乱暴だ、 と即断しないで頂きたい。
子を殺されたメスは、ただちに発情し、自分の子を殺したオスと交尾するのである。
もし血縁という事実が直接、人間関係を支配して いれば、親が子を捨てることもない。
親子関係が多様に現れるのは、その間に想像力という繋ぎ手がいるからなのだ。

 血縁の両親に育てられた子だけが正常で、それ以外は異常ということはない。
片親の子は性格が歪むと言うのは、片親の子は性格が歪んでほしいという大人の偏見である。
日本では、婚姻外の親から生まれる子は、きわめて少ない。
また、養子関係を公言することも少ない。
子を育てるのは、擬制の血縁関係にある親で良いのだ。
いままで、そう言われなかったのには、そうしなければならない、事情があっただけなのだ。

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