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第1部 腕力支配の終焉 11.産む性 日本における女性の台頭は、主体である女性の力量不足もあって、興味本意に語られやすい。 しかし、女性の台頭は、男性社会の変化が招来したのである。 いまさら、コンピューターを使わないといったら、たちまち他の国に、いや隣の男性に追い越されるだろう。 それゆえ、後戻りすることは、絶対にありえない。 後戻りすることは、男性社会の空中分解を意味する。 今まで女性は、産む性でありなら、自己の意志とは無関係に妊娠し、しかも、自己の意志だけでは妊娠できない悲劇的な立場にいた。 男性は子孫を残す時、女性の意志をまったく無視しても、いっこうにかまわなかった。 男性の意志だけで、女性に妊娠させることが出来た。 子を残すにあたって、女性の意志の介在する余地はなかった。 女性の体内において、健康な卵と精子の結合が確保されれば、子の誕生に結びついた。 どんな性交であろうと、何パーセントかの確率で子は誕生する。 戦前には、相手が誰だか判らないままに、結婚させられた女性はたくさんいた。 見合いするどころか、周囲が決めた結婚によって結ばれ、初夜まで夫の 顔を知らずにいた、と言うことさえ珍しくなかった。 それでも、結婚生活は続き、子も生まれた。 それで、種は維持されたのである。 女性が子を育てることによって、次の世代の主導権を握っていたのだ。 これまで日本の男性は、子育てに参加してこなかった。 女性の台頭は、次の世代の育成に光をあてた。 いままで、二級だった女性が、もっぱら子育てを担当してきた。 かっては一生を通じて、二級に甘んじざるを得なかった女性は、生涯の一時期、何人かの子を生み、育てることによって男性に対置する座を獲得した。 母性愛という得体の知れないものを、女性は持たされ、そして、持ち続けた。 劣等だった女性は、押しつけられた母性愛が、いかに女性の自由を拘束しようとも、それを放棄しなかった。 母性愛を放棄したら、ほんとうに女性の存在価値がなくなることを、無意識のうちに知っていた。 子育ては、ほんらい楽しいはずだった。 しかし、子は別の人格だから、育てる過程で手こずることもあった。 そこから逃げ出した男性に続いて、いま女性も手を引こうとしている。 いま女性は、母性愛という鎖からも、自由になろうとしている。 養う、養われる結婚が死滅するように、種に対する、義務としての子育てはなくなるであろう。 楽しみとしての男女同居以外に、結婚が消滅するのと同じように、楽しみとしての子育て以外は残らないだろう。 今日の日本では、出生率がどんどん下がっている。 これからも、下がり続けるであろう。 女性は、今や男性となんら変わらない意識をもっているのである。 女性だけが、子を可愛いと感じるなどと言うことが、どうしてあり得よう。 女性だけに、子育てを押しつけることは出来ない。 妊娠・出産と育児が、セットと して考えられている限り、女性は子どもを産まなくなるだろう。 女性は自分の腹を痛めたから、男性以上に子に愛情がわくと、誰が決めたのだろうか。 出産とは、きわめて動物的な行為であって、母性愛でするものではない。 出産直後に、子を取り替えられても、女性はそれを識別できない。 子を生んで捨てる女性もいるのだから、子育ては女性の本能ではない。 女性が台頭しても、男性と女性の肉体差は、厳として存在する。 男性がどんなに優しくなろうと、女性になることはないし、女性がどんなに体を鍛えよ うと、男性になることはない。 もちろんのこと、男性が妊娠することは、永遠に有り得ない。 子を残すメカニズムは、永遠に変わらないのだ。 子は、男性にとっても、女性にとっても可愛いものである。 それを女性だけに、任せていたことがおかしかったのである。 男性も子育てに参加すべき だったのである。 これからでも遅くはない。 女性の手をかりず、男性だけでも子を育て上げるくらいの姿勢を、男性が示さないと、女性はもはや子を生まなく なるだろう。 |
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