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第1部 腕力支配の終焉 3.男性と女性の違いから 男性と女性は違う。 男性は体が大きく、ごつごつしているし、女性は柔らかい曲線的な体をしている。 男性の声は太く低いが、女性の声は高い。 もちろん、男性は女性を妊娠させることはできるが、自らは子を生むことは出来ない。 女性は自ら妊娠し、子を生むことは出来るが、男性を妊娠させることは出来ない。 こうした肉体的な違いから、それぞれの体の構造に合ったように、男性は外にでて働き、女性は家庭で働いてきた、と言う。 いつの時代、どこの社会でも、男性と女性の体の構造は違う。 どんなに科学が進歩しても、この違いはなくならない。 そのために、男性と女性の社会的な違いは、合理的で理由のあることだ、という論もある。 しかし、体の構造の違いが、そのまま男性と女性の社会的な違いとして、現出すると考えるには少し飛躍し過ぎである。 もし、肉体的な違いが、そのまま社会的な違いに結果すると結論してしまうと、さまざまな肉体的な違いが扱いの違いの根拠となってくる。 たとえば、白人と黒人の間には、白い肌と黒い肌という、はっきりとした違いがある。 しかし、今日では誰も、それをもって白人と黒人の社会的な違いにまで論及しようとはしない。 白人と黒人の違いは、単に人種的な相違にすぎず、根本的な人間の違いだとは考えない。 ましてや白人は室内で、黒人は屋外で働くのが、生来的に適しているなどとは誰も考えない。 子供が育ってくる過程を見ると、誰かがわざわざ教えたわけでもないのに、男性は乱暴で力強い外での遊びを好み、女性は優しい静かな遊びを好むことに気づく。 こうした傾向から、男性は外、女性は内という分業論にいきつきやすい。 そして、分業が単なる役割分担ではなく、固定化し、男性の仕事と女性の仕事の、優劣に結びつきやすい。 そのうえ、時としては、男性と女性それ自体の優劣にまで、話は発展した。 家庭内外分業論が成立するためには、男性と女性の体の構造の違いといった、即物的な理由だけでは不充分である。 身体の構造の違いが、何故、家庭内外分業に結果するのか、ここをつなぐ、もっと明確な理由があるはずである。 そうでなければ、誰もこの論を納得しなかった。 いままで、家庭内外分業論は男性だけでなく、女性にも支持されていたのである。 多くの人を納得させるものが、そこにはあったのであるから。 社会での労働と家事労働とは、実は互いに排他的に対立するものではない。 人は、社会での労働をしたからといって、家事労働が出来ないわけではない。 たとえば、農業を例に考えると、男性と女性の家庭内外分業が、きわめて強いように見える。 しかし、家事労働の担当者である女性も農作業をする。<早乙女>という言葉もあるとおり、田植えなどはもっぱら女性の仕事であった。 草とりだって、稲刈りだって、女性も男性と同様に外で働いた。 むしろ、女性の姿のない田園風景などなかったのが、本当のところである。 女性は外仕事もした。 しかし、農家の男性は、家事労働はしない。 また例えば、クリーニング屋であっても、事情は同じである。 クリーニング屋の夫は、職業としての洗濯はしても、自分のパンツを洗濯することはない。 洗濯する能力や技術は、夫である男性の方が上でも、家事労働としての洗濯には男性は手を出さない。 床屋とか、パーマ屋とかは、時として、夫婦で同じ仕事をしている場合がある。 この場合は、男性も女性も同じ質の仕事をしているわけだが、やはり、男性が家事をしている例はあまり聞かない。 仕事の合間をぬって、女性が家事をしている例が多い。 家業には、女性も参加したり、手伝ったりした例は多い。 しかし、家事労働としての、同種の労働に、男性は手を出さなかったのだ。 男性と女性の体の構造の違いが、男性と女性の仕事にたいする取り組み方を決めたというのは、少し無理があるようである。 なぜなら、外仕事をした女性もいたし、内仕事をした男性もいた。 しかも女性の多くは、農家や商店の主婦のように、職業上の仕事もしたうえで、しかも家事労働も担っていたというのが、本当の所だからである。 |
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