「性差を越えて」−働く女と男のための栄養剤
by  匠 雅音  新泉社から1992年刊

目    次         
はじめに
第1部
 腕力支配の終焉
1.生きていくこと
2.職種別の男と女
3.男と女の違いから
4.家事労働
5.力の役割
6.技術と腕力
7.肉体の賛美
8.労働の結果
9.劣性の無化
10.自己保身
11.産む性
12.アメリカ
第2部
 性交の社会学
1.男性性の確立
2.誕生の契機
3.勃起の背景
4.呪術の世界
5.弱き強姦
6.犠牲の血縁
7.近代の家族
8.結婚と家族
9.哀しき主婦
10.自立への恐怖
11.大胆な避妊
12.肉体の優先
13.貨幣の絶対化
第3部
 自立する頭脳
1.内在する神
2.奥義書の言葉
3.美の構築
4.価値の忘却
5.我を忘れる
6.痛いという言葉
7.体験という想像
8.鋭利な言葉
9.等しい男性と女性   10.男根欠損
11.買春の解放
12.今の男性から
13.二人の神
 
第4部
 想像力が飛翔する
1.敏感な部分
2.方法論の欠如
3.土着の稲作
4.墓と戸籍
5.内外を結ぶ
6.試行錯誤
7.事実と願望
8.若さの凋落
9.日本の女性たちへ
10.新しい価値

あとがき  

第2部    性交の社会学

8.結婚と家族
 今日の結婚は、いつか分かれるかもしれないことが、考慮のうちとして始まってはいない。
男性も女性も、一生愛し続ける自信はないままに、一生にわたって同居するつもりの結婚生活にはいる。
もしくは、一生にわたって愛し続けるという、幸せな錯覚のまま、結婚生活にはいる。
いつの時代か ら、結婚が一生添い遂げることを、前提とする制度となってきたのだろうか。


 一夫一婦制とか、一夫多妻制といったときは、いずれも経過する時間の概念が入っていない。
人間は生きているのであって、生きること は、常に時間の継続にさらされている。
種の保存からみると、その一組の男性と女性が、どの様な関係にあるか、いいかえると、一夫一婦的に結婚しているかどうかはまったく、どちらでもいい問題である。
種は種として、保存されればよく、健康でありさえすれば、誰の子であってもかまわない。
婚姻制度は、種の好みとは無関係である。

 女性は愛されることを好むと言うが、男性も愛されることは好きである。
男性が愛することが好きなのと同じように、女性も愛することが好きであろう。
性交が一対一でしかできないことから、自然と終生の一夫一婦制が発生したと、錯覚されやすいが、けっしてそうではない。
むしろ、生産力が向上してから、終生の一夫一婦制は強固になってくる。
武士社会で終生の一夫一婦制は強調された。
とりわけ近代社会に入って、専業主婦を生み出してから、一夫一婦制はますます強固になってきた。


 日本の近代では、女性に経済力がなかった。
だから、妊娠させた男性が育児期間中に、他の女性のところへいってしまうと、その子が育たなくなる。
だから、一夫一婦制を、良しとせざるを得なかった。
ほんとうは、生まれた子を育てる社会の制度が、どんな形かでもあれば子は育つ。


 結婚制度としての、終生の一夫一婦制は、種の保存とは何の関係もない。
夫や妻以外の誰とでも性交はできる。
その結果生まれた子は、 夫や妻以外の人間でも育て得る。
男性が終生の一夫一婦制を、強調した本当の理由は、自分の血縁を確かめられないからである。
だから、他の男性の精液を自分の女性の体内に入れさせないために、終生の一夫一婦制を強調したのであった。
親子が擬制の血縁によって結ばれていることを、知らなかった時代の不幸で あった。


 終生の一夫一婦制は、男性の都合で生まれた。
男性の都合で、その維持が強調されたのである。
だから、終生の一夫一婦制は、女性のほうにより強く強制力が利いた。
男性には妾を持つことや売春婦を買うことを黙認したように、弱くしか利かなかった。
もちろん、離婚する権利は男性にしかなく、女性から離婚することはできなかった。
女性が嫁ぎ先から逃げ帰っても、実家の両親から因果を含められて、もう一度嫁ぎ先へと送り出されたのだった。
終生の一 夫一婦制を維持するためには、女性に経済力をもたせないことが肝要だった。


 経済力がある男性には、夫婦をやめることはできても、女性からそれを言い出すことはできない。
そんなことをしたら、直ちに明日からの生活にこまる。
だから、女性はどんなことをされても、男性の身勝手さに耐えたのである。
そして、夫婦関係が実質的には破綻しても、終生の一夫一婦制にしが みつかざるを得なかった。


 労働それはヒトにとって、不可欠である。
男性にとってだけ、もしくは女性にとってだけ、必要なのではない。
誰かが労働をしなければ、 種としての人間は生きていけない。
だから、労働自体の可否は、考慮の対象ではない。
労働の讃歌があったでけである。
労働は、それに従事すること自体が正し く、だから楽しいことであった。
今日のサラリーマン生活からは、労働が苦役のように感じるかも知れない。
しかし、肉体労働が主流であった時代には、労働に従事することは喜びだった。


 肉体労働に従事する人間は、労働に従事するだけで、自己の存在証明を手にした。
労働が与えてくれる達成感が、何にも増しての、存在証明なのである。
労働している、そのこと自体が、種の繁栄に奉仕していることだったのだ。
だから、労働に従事する人間の存在証明を、改めてつくる必要はなかった。
働くことそれ自体が、存在証明なのだから。

 終生の一夫一婦という結婚制度から発生した、専業主婦はそうではなかった。
主婦の担当した家事労働は、ヒトに不可欠のものではなかった。
ましてや、激しい筋肉労働は男性しか担えなかったのとは異なり、それを女性という性が、分担しなければならない必然性はなかった。
人間は、否定のうえに自己の存在証明を築くことはできない。
それゆえ、社会は、女性の存在証明を無理矢理にも、作り出さなければならなかった。


 社会は、常に女性に向かって、さまざまな力づけをいって、家事労働者を守ってきた。
曰く、妻のシャドーワークが夫を元気に働かせる。
曰く、主婦が次代の担い手を育てる。
子供の非行は欠陥家庭から生まれる。
女性は弱し、されど母は強し。
腹を痛めた母の愛情は、海よりも深し。
近代以降、今日まで、結婚=家庭生活のあってほしい姿は、なにかにつけて力説されてきた。
健康でたくましい夫、優しくかいがいしい妻、これは何度も宣伝されてきた。
そ して、男性も女性もその宣伝を、信じてきた。

次に進む