|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
第2部 性交の社会学 3.勃起の背景 種としてのヒトは、世代を越えて継続される。 個体の生死があるから、種は保存される。 一対の男性と女性が子孫を誕生させ、種を保存するメカニズムは、太古から変わってはいない。 今後も永遠に変わる事はないだろう。 今日では13才未満の少女と、性交することは、たとえ少女が同意しても犯罪である。 しかし、昔の人間は、精神的な成熟が早かったから、男性も女性も小さな頃から性交をしていた。 食生活が貧しかったので、初潮が遅かったことも手伝って、早熟な昔の女性は、初潮がくる前であっても性交した。 たとえば、豊臣秀吉の妻、ねねでさえ数えの13才で結婚している。 それは、今の小学校6年の年齢である。 男性も、事情はまったく同じであった。 男性もある年齢に達しないと、精子は作れない。 しかし、それよりずっと以前から勃起はする。 む しろ、射精しない幼い男性性器のほうが、勃起が長続きすることすらある。 勃起すれば、精通前の年齢でも性交ができた。 初潮前の女性が性交したように、男性も精通前から性交をした。 今日、性交は大人のものだと見なされているが、昔はそうではなかった。 勃起が性交の絶対条件で、射精は絶対条件ではない。 射精しない人間でも、勃起しさえすれば性交は出来る。 射精は成人男性のする性交の単なる一過程であり、結果にすぎない。 そして、今日では、男性の射精が、性交の終了を意味することが多くなっている。 しかし、今日では勃起の始まり が、自動的に性交の開始を意味しないように、かっては射精が性交の終了を、意味しなかったのかもしれない。 人間の欲求に素直に従っていた時代は、だから、性交と妊娠の関係が判らなかった。 その時代には、男性にとっても、女性にとっても、性交はたんなる娯楽や慰安だったに違いない。 そして、性交は、充足感や満足感の確認であったに違いない。 この時代、性交は隠れてすることでは、なかったかも知れない。 私達は、性交を生殖と結び付けて、考えすぎているのではないだろうか。 ある時、女性が新しい生命を産むには、男性の精子が不可欠であると、人間が知った。 しかも、精子は成人の男性だけが、生産できるのだと知った。 性交によって、それが女性の体内に注入されていたのだと知った。 性交の絶対必要条件は勃起だったが、射精は生殖に必要な絶対条件だった。 ここにおいて、男性は個体維持と種族保存の両者にわたって、主導権を確立した。 男性は、今まで労働をとおして、社会に貢献している手ごたえを持っていた。 労働の報酬は、それに参加した全員に、平等にしかも応分にあったので、男性は、自己存在の正当性を主張できた。 それまでも、個体維持は種族保存に優先したので、男性は女性に対して、充分に強権的だった。 そのう え、種の保存に男性が不可欠であると知ったのである。 男性は種族保存の鍵も握った。 このときを境にして、男性は女性に対する男性の優越性を、二重に確立したのである。 女性は、自己存在の正当性を主張する手段のすべてを失った。 女性は男性を奮い立たせ、男性の能力をより以上に発揮させることで、その評価を受けた。 女性は性交にのぞんで、客体として体を提供することができた。 そのため、男性たちから、二重三重の規範を押しつけられた。 女性には性欲がない。 女性の性欲は、男性によって開発される。 女性は自ら性交を望んではいけない。 男性が主体、女性は客体と、定義つけられた。 自ら性交を望む女性は、男性から蔑視された。 そして、女性もそれを信じた。 その上、女性の存在は男性を挑発するから、聖なる男性の仕事からは隔離された。 女性が男性と同じ種類の人間だとは、もはや誰も考えなかった。 女性にも男性と同じ人格があるとは思われなかった。 女性は、子供と一緒 にくくられて、子供と同列に扱われた。 女性はただ存在するだけの意味しか与えられなかった。 唯一、子を産む機械=借り腹としてだけ、存在意義を認められた。 しかも、三年子なきは去れと言われた。 優れた男性に、欠陥があろうはずがなかった。 実際には、不妊の原因の半分は男性にあるにもかかわらず、男性優位 の社会では、不妊の原因は女性以外にありようがなかった。 男性が優越性を二重に確立したことは、同時に男性に病的な緊張感を与えることとなった。 それまでの社会では、性交は男性と女性の間の 慰安や娯楽だったから、男性も女性も性器をつなぐことを楽しんでいた。 食欲を満たすように、素直に性欲を満たした。 この時代までは、性交は手を握った り、抱き合ったりする行為と、同じ意味であった。 しかしこれ以降、性交は種に対する義務となった。 これからは勃起不全は、男性の存在意味が抹消されることを意味した。 女性より優れている男性は、必ず勃起しなければならない。 種を維持するために、勃起できない男性を、女性も非難することができた。 肉体的には何の不具合はなくても、時として勃起不全になったりするのは、たいがいの男性が経験しているはずである。 それは、勃起させる力が、単純な生理作用ではないことの証である。 勃起力は、不安定な男性性の上にもまたがって成り立っているから、肉体的には何の不具合がなくても勃起しないことがある。 勃起不全はいままで自分を支えてきた、男性性の崩壊だから、男性は焦るのである。 男性性が優位の社会では、勃起不全は公言できない。 もし、勃起できないことを公言すれば、男性性を否定することにつながりかねないのだから。 今日まで、男性の二重優越性が、男性にも女性にも、無意識のうちに共有されていたから、今まで種は維持されたのである。 今までの社会では、肉体労働が価値の中心であった、とは前述してきた。 換言すると、男性性を支えていたものは、つまるところ肉体労働中心の価値観だった。 男性に自信を待たせ、堂々と行動させ、女性より優れた生き物だと男性に信じさせた根拠は、社会が肉体労働によって成り立っていたからである。 男性は女性に対して、肉体的に優位者であったのだ。 男性中心の価値観が、社会を支配していたので、男性は種を維持するという名誉と引き替えに勃起できたのである。 肉体労働から頭脳労働へと、社会の価値が移動している現在、男性は種に対する義務としての性交から、解放され始めた。 男性は、女性を見れば欲情しなくて はならないという、社会の脅迫観念から解放された。 男性性の根拠が、肉体な腕力の優越にはなくなったため、女性に対してだけ勃起しなければならないよ うな強制からは無縁になった。 男性は男性を愛しても、一向にかまわなくなったのだ。 |
||||||||
|