近代の終焉と母殺し  1999.3−記

目  次
はじめに 第8章 電脳的機械文明の誕生
第1章 農耕社会から工業社会へ 第9章 男性性と女性性
第2章 自然という神の存在 第10章 フェミニズムの誕生
第3章 神からの距離による正統と異端 第11章 母 殺 し
第4章 神とその代理人たる父の死 第12章 無色となった性
第5章 個体維持と肉体労働 第13章 近代の終焉
第6章 新たな論理の獲得 第14章 純粋な愛情の時代
第7章 機械文明の誕生 おわりに

第13章 近代の終焉

 伝統的社会の崩壊後つまり近代社会は、わが国においては明治以降の約150年である。
近代社会が最も長い西ヨーロッパでも、農耕社会 から情報社会への転機に存在する、せいぜい約300年くらいのきわめて短い時代である。
別名を工業社会とも呼ばれるそれは、経済的にもまた軍事的にも非常 に強い文明だった。(注−142)
そのため世界中を制覇した。
しかし、日本以外の多くのアジア諸国が、近代的な工業社会として台頭した今、近代化はもはや西ヨーロッパの独占するところではなくなった。


 第二次世界大戦までは、西欧諸国以外に、工業社会を実現していた国はどこにも存在しなかった。
わが国を唯一の例外として、工業生産力が西欧諸国に独占されていた。
戦前すでに工業社会化していたわが国は、西欧文明に属さない唯一の例外国だったが、工業社会化していたわが国でさえ、明治以 来の近代化の実現は西欧に追いつけであった。
そのため、わが国や多くの途上国にとって、近代化とは西欧化を意味した。


 戦後50年たつと事情は変わり、わが国の高度成長は、西欧諸国との工業生産力の均衡関係を大きく変化させた。
近年の世界市場での材や資本の動き、またスシ・カラオケなどの世界的な普及を見ると、ある部分では近代化とは日本化を意味しさえするようになった。


 最近の東・東南アジアの台頭は、近代化が地域性や固有の宗教によって、拘束されるものではないこと知らせた。
それは近代つまり工業社会を実現する構造が、地域性から離れて独自に存在していると物語っている。
西欧化とか日本化は地域に関する概念であるが、工業化を意味する近代化はもっと 抽象された概念である。
そのため近代化と西欧化は、次元の違う概念として捉えなければならない。


 計画経済という方法で西側諸国とは別の道から、より一層の近代化をめざしたソ連の崩壊は、近代を実現する方法は一つしかないことを明確にした。(注−143)
つまり、個人の自立を指向しない形での近代化はあり得ず、西ヨーロッパ・日本・アジア諸国の軌跡の中にだけ、近代化を成功裏に実現する方法があったのである。
この三つの地域の歴史を洗うことによって、近代化を実現する構造が浮き上がってくるだろう。


 近代化に不可欠なものは個人の自立であり、自然から離れることつまり神殺しだとすると、価値が絶対として人間の外部に屹立することが不可避である。
そのために、西ヨーロッパにおけるキリスト教は、イエス・キリストの創始した原始キリスト教のままでは存続を許されずに、宗教革命を経なければならなかったのである。
近代化の原動力を担ったのは、西ヨーロッパにあってはキリスト教だとすれば、いまだ推測の域を出ないが、日本にあってのそれは天皇制、アジア諸国にあっては開発独裁であるという仮説を、再度ここで提示しておく。

 生産力などの形態から時代を整理してみると
前近代 近代   後近代  
 ボルケナウ (注−144)の表現によれば   封建的世界  市民的世界
 テンニース(注−145)の区分によれば 共同社会 利益社会
 ウエーバー(注−146)の考察によれば 伝統社会 資本主義社会
 トフラー(注−147)やベル等に従えば 農耕社会 工業社会 情報社会

といった対応関係になっており、それぞれ

 生活の形態を見ると         群の生活    対の生活   個の生活 
 家族のあり方を捉えると 大家族 核家族  単家族
 生産力から分けると 人力文明 機械文明 電脳文明

が対応していることが判る。

 伝統的社会では、家族が今日の企業に相当する生産組織だった。
家族を中心に農作業が営まれたので、労働集約的な農作業が血縁的な結合の強い、拡大家族や直系家族などの大家族という群の生活を要求した。
農耕社会では、事実として小さな核家族が存在しようとも、あるべき家族の理念型は、血縁や世代の連続を重視する大家族以外になりようがなかった。(注−149)

 工業社会になると、家族は生産組織ではなくなったが、女性の職場がなかったので、男女が対になる生活は不可避だった。
そのため、工業社会における家族の理念型は、事実としてそこに大家族が存在しようとも、同じ世代の男女の結合を中心とする核家族となった。(注−150)

 農耕社会の大家族が核家族に分裂したように、工業社会の核家族も分裂するが、家族が消滅することはない。
個体維持と種族保存の交点が家族だから、人類の歴史が続く限り、家族が消滅することはあり得ない。
農耕社会が群の生活を、そして、工業社会が対の生活を求めたとすれば、情報社会は個の生活を求めている。
けだし、情報社会が個人的な労働を要求しているから。
歴史の流れは、より広範な社会全体の計画化ではなく、群から個へといった一層の 細分化を求めている。


 今日、家族形態が複雑化したとか、多様化したと言われるが、家族のあり方がまったく規則性を欠いて、家族それ自体が雲散霧消するわけではない。
情報社会では労働形態が個人的な作業になるがゆえに、個人を単位とした家族、いいかえると「単家族」へと核家族は変身をとげる。

 単家族に関しては別稿を参照して欲しいが、情報社会でも子供は生まれる。
だから、生まれた子供の受け皿は単家族という家族となる。
ここまで時代の整理が進むと、近代がいかなる時代だったかが、はっきり判ってくるだろう。
比喩的に言うと近代という工業社会は、農耕社会といった胴体から、 情報社会といった頭への繋ぎの時代で、いわば首の時代だったのである。

 近代は長い助走の末に、ニュートンを引用したカントで始まり、アインシュタインで終わった。
「プリンキピア」に代表される論理的思考 つまり科学を獲得した男性は、神を殺して工業社会を誕生させて線形論の世界を構築した。
微分方程式を積分できるのが近代であり、それが解析的に不可能で数値的にしか積分できない時代に入った。

 今や極限の近似値が、問題にされる時代である。
確実性の終焉」つまり非線形論の世界に入ったところで、近代は次の時代つまり後近代に入っている。
言い換えると近代とは、有形の物が取引の対象だった工業社会の別名だったのであり、情報という無形の材が取引の対象となった現代社会は情報社会であり、近代の次ぎつまり後近代である。


 男性の神からの自立が近代を開き、男性が神にとって代わったので、近代とは男性支配の時代である。
しかし今や、被支配者だった女性が、母を殺して自立してしまったのだから、近代は終わったと言わざるを得ない。
近代を支えたイデオロギーであるリベラリズムの命脈が尽きただけなのではない。(注−152)
男女の対を中心とする核家族、年齢による輪切りの学校制度、上意下達のピラミッド型企業や官僚組織、情報を独占するマスコミなどなど、近代になってから誕生した全分野で、近代的思考や秩序はもはや有効性を失った、と考えるべきである。


次に進む