近代の終焉と母殺し  1999.3−記

目  次
はじめに 第8章 電脳的機械文明の誕生
第1章 農耕社会から工業社会へ 第9章 男性性と女性性
第2章 自然という神の存在 第10章 フェミニズムの誕生
第3章 神からの距離による正統と異端 第11章 母 殺 し
第4章 神とその代理人たる父の死 第12章 無色となった性
第5章 個体維持と肉体労働 第13章 近代の終焉
第6章 新たな論理の獲得 第14章 純粋な愛情の時代
第7章 機械文明の誕生 おわりに

第5章 個体維持と肉体労働

 伝統的な社会では機械や人工的な動力が存在しなかったから、すべての労働は人間の肉体によって担われた。
どんなに優れた考えも、頑健な肉体ぬきでは現実化できなかった。
いつの時代でも単純な肉体労働より、支配という頭脳労働のほうが社会的な評価は高かったが、人間の肉体が生産を支え社会を支えていた。
機械や人工的な動力がない限り、人間の肉体が担う労働が、個体の生存のみならず種族の生命をも保障してきた。

 特権的な人々は、肉体労働を嫌って働くことを蔑視したが、彼等は人口の10%にも満たなかった。
社会的な価値や材は、10%の支配階 級が独占したにしても、残り90%の人々の肉体労働が社会を支えたのである。
そしてある社会では、肉体労働を専門にする人間すなわち奴隷たちすら存在した。

 伝統的な社会では、呪術や宗教などが重視され労働が軽視されたように見えるのは、呪術とか宗教とか様々なものが労働の上に重層的にのっており、労働がむき出しにされていなかったからである。
そのため、表面的な考察をすると宗教的な価値に目がいって、労働が大切にされたことを忘れがちである。
そして、西洋近代文明の源であるギリシャでは、こうだったと言った具合に語り、特権的な人間たちの行動が、当時の社会の全てだと勘違いしがちである。
時としては人間の命が、神への人身供犠に差し出されたことを忘れてしまっている。


 頭脳労働と言った人間の活動も、機械がない時代には肉体労働の一部としか存在できなかった。
労働の賛美は近代に特有の産物だと言う人がいるが、それは近代の入り口で神や父を殺し、宗教的な価値などを賛美しなくなった結果に過ぎない。(注−61)
とりわけ伝統的社会では、家庭と働く場所が分かれておらず、住んでいるところがそのまま働く場所であった。
そのため、勤務時間と非勤務時間が分離しておら ず、生活することそれ自体が労働であった。
神がいなくなれば、人間の生活に重点が移るのは必然だった。
労働と仕事を分けて論じるハンナ・アレントは、次の ように言う。


 「労働は、自然が提供する物と合体し、それを『集め』、それと肉体的に『混じり合う』。このとき、労働は、肉体が栄養を消化するときにもっと直接的に行うのと同じことを活発に行っているのである」(注−62)

 しかし、働くことは賛美以前のことであり、無前提の前提であった。
人間が社会生活を営むようになって以降、働かずにすんだ歴史はない。
地球環境の恵みが豊かな南国の楽園といえども、人間は体を使って働いている。
いつの時代でも、人間は自己存在の根拠を求める。
神が生きていた時代には、生きることは働くつまり命を長らえることであり、必然的に神への感謝が自己を肯定することだった。

 聖なる神は食べなくても生きていけるが、俗なる人間は食べないと生きてはいけない。
聖俗を計量すれば、聖が上位である。
聖的な価値を独占した少数の特権的な者たちが、支配階級として社会の上位を占めた。
しかし、聖なる至高の価値を支えるのも、生きた人間たちだったから、生きるためのものを生み出す労働は不可欠だった。
絶対的必要性である労働は、あらためて賛美する対象ではない。
ただ、なさねばならぬことに過ぎない。
神との距離が人間の価値を根拠づけたが、神を除いた世界、つまり人間と人間のあいだでは事情は違った。
瀬川清子は農村調査から、人間の肉体労働の貴重さに気がついて、次のよ うに言う。


 「人間の手足・身体のエネルギー以外に生産手段のなかった時代には、手足の持ち主である一人一人の男女の労働価値が絶対であったことをみとめずにはいられない」(注−63)

 「婦人の百姓仕事は、一人前の男たちの七分から八分くらいするのが普通といわれた」(注−64)


 支配者・被支配者また男性・女性の両者をつらぬいて、肉体的な力強さが、理屈や能書きよりも大切にされた。
女性の一人前とは、男性の一人前を標準にして計測された。
なぜなら男性の肉体的な力強さこそ、生産を支えた最強のものだったからである。


 全ての生き物が逃れることのできない自然の摂理、それは個体維持と種族保存である。
人間も例外ではない。
個体維持とは自分の体つまり 自分の命を保つことであり、種族保存とは自分の子供を産み育てることである。
しかし、両者は等価ではない。
個体維持は生産労働によって担われ、種族保存は個体が維持されて初めて実現する。
これは支配・被支配階級を問わず、誰でも従わざる得ない。


 個体維持と種族保存を比べれば、どんな社会でも個体維持が先行する。
リチャード・ドーキンズも言うように遺伝子はきわめて身勝手であり、


 「自然状態では、養いきれる数以上の子を抱えた親は孫をたくさんもつことは出来ず、…自制を知らぬ放縦をもたらす遺伝子は、すべてただちに罰を受ける」(注−65)

から、個体が維持されて、はじめて種族が保存される。
その逆はあり得ないから、種族保存より個体維持に直結した生産労働が、必ず優先する。
子供を生み育てることよりも、まず自分たちの食糧が確保されねば、人間は生きていけない。
それは男女を問わない。
まず、個体維持である。
だから優美 な女性の肉体よりも、男性の頑健な肉体がより大切だった。
そこで、次のような残酷なことも、まま起きたとJ・E・コーエンは言う。


 「女性と比べて男性の比率が異常に多い発掘遺骨から分かるように、現代の人間とほとんど変わらない二万年前の後期旧石器時代の人々も女児殺しをしていた」(注−66)

 残酷な話ではあるが、長かった人間の歴史上では、頑健な肉体の賛美は無前提の常識だったのである。
男性は大きな生産労働と小さな種族保存を、女性は小さな生産労働と大きな種族保存を担当した。
もちろん男女の両者にとって、生産労働のほうがより大切であり、主として男性の頑強な肉体がそ れを支えていた。
そのため伝統的な社会では、男性優位の社会秩序は必然だった。


 人類の歴史には、人種差別や信じる宗教による差別など、誰でもが納得できる理由のない様々な差別が存在したし、現在でも存在する。
わが国には、被差別部落と言った無意味な差別もある。
多数者による少数者への理由なき差別は、人間の肉体的な違いによる不可避なものではなく、政治的な支配のためと言った理由によることが多い。
そうした背景があるから、男女差別もそうした理由なき差別の一つであり、政治的な理由による差別だという女性論者たちもいる。
しかし、男女が社会的に異なる扱いを受けてきたのは、理由がないことではなかった。
体力の違いという生理的な男女の違いが、社会的な男女の違いを招来してきたのである。


 頑健な肉体を持った男性を大切にしなければ、生産性が落ちてしまう。
それは男女を問わず、自分たち自身が困るのであった。
歴史上また 地球上、ほとんどすべての社会が男性優位の社会秩序をもっていた。
女性の血縁をつうじて財産を相続する社会でも、女性に対する男性の優位は例外ではない。
頑健な肉体を持った男性を、優位者と認めてはじめて、村の生活は平和に維持できた。


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