近代の終焉と母殺し  1999.3−記

目  次
はじめに 第8章 電脳的機械文明の誕生
第1章 農耕社会から工業社会へ 第9章 男性性と女性性
第2章 自然という神の存在 第10章 フェミニズムの誕生
第3章 神からの距離による正統と異端 第11章 母 殺 し
第4章 神とその代理人たる父の死 第12章 無色となった性
第5章 個体維持と肉体労働 第13章 近代の終焉
第6章 新たな論理の獲得 第14章 純粋な愛情の時代
第7章 機械文明の誕生 おわりに

第1章 農耕社会から工業社会へ

 人間が猿から別れ、地上に降り立った直後は、他の生き物を捕らえたり、食物を採集して命を長らえていた。
つまり狩猟・採集によって、個体を維持していたことは疑いない。
自然の恵みに取り囲まれて、ほんとうに長い期間にわたって、人間たちは平和に生活してきた。
彼等は今日から見ると短い人生だったらしい が、それでも充実した毎日だったようである。


 「食料に見あうだけの低人口を維持している限り、狩猟採集民はうらやむべき生活水準を享受できた」(注−7)

らしいが、気象条件など何らかの事情で、食糧と養える人口の均衡が崩れ始めると、狩猟・採集にだけ頼っているわけにはいかなかった。
狩猟・採集のみの生活から長い年月が経過した後、やがて狩猟・採集と農耕の併用から、農耕へと移っていったに違いない。
人間の人間たる違い、それを山極寿一 は次のように言う。


 「人類の食生活の特異な点は、食物をその場で消費せず、自分に必要以上な量を持ち帰って、仲間と一緒に食べるということにある。世界のどんな文化や社会でもこの原則は守られている」(注−8)

 狩猟・採集よりはるかに生産性の高い農耕は、地球上のより広い部分へと徐々に広がっていった。
そして、多くの地で人間たちは、住んでいる地域の天候を読み、世界の各地で大地の特性に従った生活秩序を生み出してきた。(注−9)
様々な植物が、農耕の対象になる。
現代人の我々になじみの深い稲作に限っても、それがなされていたのは、プラント・オパールの発掘によって、6千年以前まで考古学的に確定できる。(注−10)
人間が地球環境に働きかけるという意味での農耕であれば、その期間はもっともっとはるか昔に遡るだろう。
農耕の起源は、おおよそ1万3千年前と言われている。

 居住する環境を直接に相手とする長い年月にわたって、人間は耕作を工夫し、農耕を鍛え、収穫量を高める努力をしてきた。
狩猟・採集と言った環境だのみの不安定な産業と異なり、農耕においては人間の工夫や努力がより大きな収穫に結実し、より多くの人間が安定した生活を営めるようになっ た。
農耕に熟達するに従って、地球上の人口はゆっくりとだが着実に増えてきた。
古代世界では2〜3億人程度だった人口が、17世紀にはおおよそ5億人に なった。(注−11)

 人口が順調に増加してきたように見える人類の歴史だが、紀元元年にはすでに地球上の人口は2〜4億人に達していた。(注−12)
人間の長い歴史から見れば、つい最近まで、つまり17世紀までは5億人を越えることはなかった。
60億人に達しようとしている今日から見ると不思議に思うか もしれないが、人類の歴史を100万年としても人類の誕生から17世紀までは、極めてわずかな人口増加率だったのである。
気の遠くなるような長い期間を考えれば、その間の各一年の人口増加率は零だったと言っても過言ではない。
つまり女性は、その一生で2人以上の子供を産んだかも知れないが、成人したのはやっと2人しかいなかったのである。

 しかし、突如として18世紀から、人口が驚異的にしかも急激に増え始めた。
100万年間の人口増加をグラフに描くと、水平線からいきなり直角に上昇する逆L型の図形になってしまう。
紀元以前の水平線の部分を捨てて、元年からの変化をグラフにしても、急激な変化に違いはない。
表されるグ ラフは、離陸したジェット戦闘機の上昇曲線のように、水平から垂直へと急激に増加した図形になる。(注−13)
急激な人口増加の理由は、言うまでもなく工業という新しい産業の出現によるのである。


 近代以前つまりわが国で言うと江戸時代までは、手工業や小規模な商業を除いて、農耕以外の産業は発生しなかった。
江戸時代の250年 間、わが国人口は2、500〜3、000万人とほとんど増減せずに安定していた。
人口の90パーセント以上が、じかに大地という地球環境を相手にして生きていた。
そして、残りの10パーセントの特権的な人々つまり武士たちも、もちろん地球環境と無関係に生きていたのではない。
こうした事情は、西ヨーロッパでもまったく同様だった。


 明治以来、わが国の工業化は着々とすすんで、1945年当時の第一次産業従事者は約50パーセントまで減っていた。
しかし、それは農業従事者数の減少を物語るものではない。
明治初期には約3、000万人だったわが国の人口は、1945年には約8、000万人へと増加していた。
つまり人口の増加分が、第二次産業へと就職したのである。
実数としても本当に農業従事者が減り始めるのは、1960年以降である。
1996年現在の農業従事者は356万人で、就業人口の5.5%を切っている。(注−14)


 わが国の工業化は明治に始まりはしたが、戦前には工業社会が全人口を養うまでには至らなかった。
村落秩序は第二次世界大戦が終わるまで残存し、戦後になって村落秩序は急速に崩壊し始めた。(注−15)
これから詳述していくが、伝統的社会の農耕という産業と近代社会の工業という産業は、人口の許容力が決定的に異なる。
近代を考えるには、それがまず確認されなければならない。
昨今、近代化の限界が云々されて、近代と近代がもたらしたものを否定し、古き良き伝統社会を懐かしむ声が上がることがある。
しかし、60〇億人の人口を抱える現代社会は、もはや地球人口が5億人と言った前近代、つまり農耕社会には戻れないのである。

 農耕社会は言い換えると伝統的な社会とも呼ぶが、そこでは近代化された今日の我々には、想像もできない生活と精神活動とがあった。
たとえばM・ウェーバーは、伝統的な社会に関して次のように言っている。


 「人は『生まれながらに』できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ質素に生活する、つまり、習慣としてきた生活を続け、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎなくなる」(注−16)

 農耕社会では欲望が発生しても、それは慎ましいものだった。
土地という限られた収穫しかもたらさないものを労働の対象にしているとこ ろでは、人間の欲望が無限になることはあり得ない。
朝には太陽が昇り、夕べには太陽が沈む。
人間も朝に起きだし、夕べには床につく。
自然のくり返しの中で 環境という自然の掟に従って、日々をくり返すのが人間たちの生き方だった。
それが分を守るとか、身の程を知ると言った倫理が生まれてくる所以である。
大地の恵みという限界の中で生計を立てることが、当時のすべての人間に課せられた生き方だった。


 物を食べて男女の営みをし、子供を生み育ててきたこと、それらは今日と変わることはない。
ヨーロッパに限らず地球上のどこの農耕社会 の生活にも、今日の我々と同じような喜怒哀楽といった、精神生活があったことは事実であろう。
そして、大人(たいじん)なる優れた人格者が、存在したこと は間違いない。
歴史上には、大勢の偉人・哲人が名を残している。
しかし、農耕という産業しか存在しない社会と今日の工業社会とでは、生活様式の違いに止ま らず、大きく異なる精神活動があった。
それをM・フーコーは、次のように表現している。


 「18世紀末以前に、『人間』というものは実在しなかったのである。…『人間』こそ、知という造物主がわずか200年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったくの最近の被造物に過ぎない」(注−17)

 伝統的な社会では、朝には一日の仕事を神に報告し、夕べには日々の感謝を捧げて床についた。
全てを創った神は全能であり、神は家の中にも村の中にも、そして山や森など何処にでもいた。
人間は神の加護のもとで、平穏に暮らしていた。
わが国や西ヨーロッパに限らず、農耕が主な産業である地域では、どこでも人間は神に感謝を捧げている。
この時代には、神は山であり、海であり、目に見えるすべてであった。
そして、台風や雷また野原から街まで、 神は自然そのものだった。


 農耕社会の神とは、自然の別名だと言っても良い。
農業や漁業・牧畜と言った第一次産業しかない社会では、神は自然からは離れようがなかった。
そしてそこでは、人間も神が作った自然の一部だった。
すべての価値は神にあり、人間の命は神の前には取るに足りないものだった。
そのため、多くの地域で神に自らの命を捧げて殉教したり、神を歓待する目的で、人身供犠つまり生贄として人間の命を差し出すことさえあった。(注−18)
人身供犠は、古代イスラエル・エジプト・バビロニア・ギリシャなど世界の各地で行われ、新大陸のアステカやインカでは17世紀になっても行われていた。(注−19)
それでも、自然なる環境の掟に従って生活していた頃、つまり伝統的な社会では自然の支配者である神と、人間は幸福な関係を保っていたのである。

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