近代の終焉と母殺し  1999.3−記

目  次
はじめに 第8章 電脳的機械文明の誕生
第1章 農耕社会から工業社会へ 第9章 男性性と女性性
第2章 自然という神の存在 第10章 フェミニズムの誕生
第3章 神からの距離による正統と異端 第11章 母 殺 し
第4章 神とその代理人たる父の死 第12章 無色となった性
第5章 個体維持と肉体労働 第13章 近代の終焉
第6章 新たな論理の獲得 第14章 純粋な愛情の時代
第7章 機械文明の誕生 おわりに

第6章 新たな論理の獲得

 伝統的社会の終盤において人間と共にあった神を、論理が認識する対象として、人間の心の中から切り離した。(注−67)
それまで全能の神は、支配者という特権的な階級に寄宿していたが、人間たちが新たな論理を獲得することによって、人間の心の外へと押し出された。
特権階級 だけではない。
新たな論理の獲得に従って、大衆たちも神を心の外部に押しやって、共にある存在から神を信じる対象となした。

 神を信じる対象とする自己の発見。
言い換えると、自然や神といった環境を認識するために、自己と他者という二元構造をもった論理が発生した。
思考に数学的な発想が入って、知の質が変わった。(注−68)
伝統的な社会では自己も他者もともに神、つまり自然の中に存在した。
だから、人間が自己なる個人としては存在しなかったが、ここで人間は自己として認識する自分を発見した。


 「我思惟す故に我あり」(注−69)

と、デカルトは言う。
物を見る二つの眼に加えて、自己を見つめるもう一つの目を獲得した。
自己を相対的に見ることを知ったと言っても良い。
そのためこの時から、自然や神は他者となった。
そして同時に、自己と他者という関係が成立したがゆえに、人間による人間のための人間の社会が始まったのである。

 それまで人間と言えば、特権的な地位にいる人間を指したが、ここで人間なる概念の拡大が起きた。
支配層の人間に限らず、自己を自己と して認識する新たな論理を獲得しさえすれば、誰でも人間となり得るようになった。
血縁や家柄などといった当人の努力では入手不可能なものが、人間の価値を 決めるのではなく、観念を体得することが人間であることを保証する。
今や生まれという属性がものを言うのではない。
だから、特権的な支配者だけではなく、 普通の人々つまり大衆も神に逆らうことが可能になった。
そのため、血縁や家柄といった属性による人間の区分けが崩れ始めた。
しかしこの時、新たな論理を獲得したのは、なぜか男性だけだった。(注−70)


 大衆が論理を獲得したか否かは、庶民層への囲碁や将棋・チェス・ダーム等といった筋を追う遊戯の普及で計測できる、と筆者は考えている。(注−71)
わが国やアジアにおける1990年頃からの筆者の観察によれば(注−72)、カードやサイコロといった運をめぐる遊戯には女性もおおいに参加する。
しかし、盤面に繰り広げられる状況を読んで、次の展開を考えるという筋を追う論理的な遊戯に手を出しているのは、どこでも男性たちだけだった。
筋を追う遊戯に熱中している女性は皆無と言っていい。


 論理を遊ぶことに、女性は不熱心である。
言い換えると新たな論理の獲得に、なぜか女性は参画しなかった。
男性だけが科学という新たな 論理を獲得して、神を信じることによって、神を殺したと言っても良い。
反対に内なる神を殺したことによって、男性は新たな論理を手に入れたと言っても良い。

 神を殺した男性は、神に代わって神の椅子に座った。
現世的には、すでに男性は肉体的な頑健さによって、女性よりも優位にいたが、ここで頭脳の働きによる論理をも獲得したので、精神的にも女性に対してより優位になった。
神がいなくなった分だけ、男性優位はより強固になった。
近代が進むに つれ、より優位になった男性は女性に対して、支配者として君臨するようになる。


 今や一部の特権的な者が、神の委任に基づいて支配するのではない。
不死の神つまり永遠の命をもった自然ではなく、可死つまり有限の命をもった男性という大衆が、女性という大衆を支配し始めたのである。
人間は聖なる世界から、世俗なる社会に移住した。
社会的な上位は、すべて男性が独占し た。
そして、A・トレップも言うように家庭の中においても、


 「男性にはその財力と理性的才能ゆえに、責任ある教育者としての任務が与えられた。他方、女性には生物学的機能と、『生まれつき』感情 的であるという資質から、乳児期と初期幼児期を養育する権限が当たられた。だが、そうした乳幼児の養育に関しても、理論家としての男性が女性を指導するこ とは不可欠とされたのである」(注−73)

 近代社会では、論理と腕力の優位性が、男性の存在証明を保証した。
しかも今や男性は、神の椅子に座っている。
誰かが神の仕事を引き継がなければ、社会の秩序は崩壊してしまう。
有限の命しか持たない男性が神の仕事をも代行した。
男性の優位性は、男性をしてすすんで個体維持と種族保存に奉仕させた。
男性は自らの能力を試すべく、肉体的な力と論理の両方を使って、自分のためそして家族のために働いた。(注−74)

 近代社会は農耕社会を打ち破り、強大で豊かになった。
豊かさの見返りは、女性たちも充分に享受した。(注−75)
近代社会の女性たちは、農耕社会の男性よりはるかに豊かな生活を手に入れた。
近代西ヨーロッパは、その支配権を地球上の全土に広げた。
それは歴史上、いまだどんなに強大な帝国も、成し遂げたことはなかったほど強大だった。
全身全霊で働く男性の行動は、頑健な肉体と論理的思考という男性性を肯定した。
それは同時に男性の肉体的な暴力性の優位が、正当化されることでもあった。


 伝統的な社会から近代社会への転換において、なぜか女性は論理の獲得に出遅れた。
筆者にはその理由は判らない。
腕力に加えて論理を獲得した男性にたいして、女性は非力な肉体的存在のままだった。
そのため近代は、男性だけを伝統的な共同体から個人へと解き放ち、女性を伝統的社会に取り残 した。
だからこの時代の女性は、神殺しには参加していなかったのである。

 個体維持が男性だけの役割でないように、種族保存は女性だけの役目ではなし、女性だけでは不可能である。
それは男女の共同作業である。
しかし、個体維持への貢献において、女性はより劣位となったがゆえに、自己存在の礎として女性は妊娠・出産を担保しなければならなくなった。
そして妊娠・ 出産にとどまらず、生理的な行動とは呼べない子育てまで、女性の役割と見られ始めた。


 近代になると、父を殺した男性は自然や神から切り離されて、自立し自由になったが、女性は女性の自然性と結びつけ直された。
女性は自然に戻ること、つまり神から与えられた肉体に、女性の社会的な意味が付与された。
頑健な男性の肉体に、優美な女性の肉体が並置された。
頑健な肉体を女性が持たないように、また女性は過酷な肉体労働ができないように、妊娠・出産・授乳は男性にはできないことだった。
そのため、女性特有の生理的な能力が、女性の社会的な特性となった。
哺乳動物の繁殖にとって、子供は親世代とりわけ母体を搾取して成長するものであるにもかかわらず、母性になぞらえた女性の生理は、男性の肉体的な力にたいする反対概念となった。(注−76)


 授乳という女性の生理と結びついた母性なる言葉が、とりわけ強調されるようになった。
女性は男性に拮抗するために、新たな論理を体得 するのではなしに、自ら母性なる擬自然性を大切にした。
男女で役割分担が社会的に固定された。
女性は妊娠・出産する生き物といった自然からの規定性へと帰らざるを得なかった。


 伝統的社会では、人間存在が自然に従ったので、人間の生存は自然の摂理そのものだった。
神と人間は一体化していた。
次の松浦健の言葉にもあるように、それはわが国の神話にもよく現れている。


 「日本の創世神話は、国生みが特色とされる国生みは単なる創造ではなく。男女神の性交によって女神がはらみ、次々と島々がその体内から生まれることである」(注−77)

 国生み神話で知られる古代の神々はすこぶる淫乱、つまり肉体の生理にすなおに従った性愛の追求者だった。
そこには観念に支配された好色は存在せず、男性も女性も淫乱という自然の生理に基づいた性愛行動をした。
古事記や万葉集などに見るとおり、淫乱な性交は健康で明るくおおらかである。(注−78)
淫乱は生理的な反応だから壊れない。
しかし、男性は神を殺して淫乱から好色になった。
男性の好色な性交は観念の支配下に入ったから、男性の性行動は繊細でもろく壊れやすくなった。


 「日本には約6百万人の性的不全の男性がいるとされる」(注−79)

 「米国には糖尿病や前立腺の経尿道切除、精神的な要因でインポテンツに悩む男性が約3千万人はいるとされる」(注−80)


 観念は多数派という社会性が支えているから、通常に生活している多くの人間は、平均的な観念を持つことができる。
そして、意識の深層部に刷り込まれた各人の観念は、その人間を無意識のうちに行動させる。
しかし、観念は天与の本能ではない。
観念の逸脱は、いつでも起こり得る。
何らかの理由によって観念を自分で操作できない人間は、勃起できなくなるのは必然なのである。


 自然に生きた伝統的社会では、多くの男性たちが雄々しく勃起した。
しかし、観念の支配下に入った近代の男性たちは、いつ襲われるかも知れない勃起不全に怯えることになった。
勃起不全とは言い換えると、女性を支配したい男性器が、男性の期待した働きをしないことである。
雄々しく勃起して欲しい時に限って、当人の期待を裏切る。
勃起が男性性の証になったここで、女性の希望や好みとは無関係に、男性が秘かに巨根願望を持ったことも理解できるだろう。
そして、女性を支配する男性にとっての勃起不全は、自らの存立基盤の根底を揺るがされることだったことも理解できるだろう。
去勢コンプレックスに とりつかれた近代人のフロイトは次のように言う。


 「小さい女の子については、彼女は大きな目につく陰茎がないために自分はとても損をしていると思い、男の子がそれを持っているのを羨み、根本的にはこの動機から男になりたいという願望を抱くに至る」(注−81)

 そして、またフロイトは次のようにも言う。

 「男性の場合には、この去勢コンプレックスの影響の他に、去勢されたと認められている女性への、ある程度の蔑視というような余分のものがみられる」(注−82)


 男性が神を殺してからも、女性は自然人にとどまったが、男性はもはや自然人ではなかった。
論理という観念に支えられた女性への暴力的 優越性が、男性に勃起力を維持させたのである。
この時から男性にとって、性交は男女による相互の触れ合いではなくなった。
男性が上にのる正常位なる言葉が生まれ、性交は挿入と射精を意味するようになった。
もはや男性の性的な不能は許されなくなった。(注−83)
そして、男性の性交を支えるのは、生理的な自然の本能ではなく、性にまつわる好色な観念となったのである。(注−84)

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