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第9章 男性性と女性性 電脳的機械文明は、人間を肉体労働から頭脳労働へと転換させた。と同時に、男性の女性に対する最大の優位、つまり腕力の有効性をも無価値化させた。 性差が社会的に無化したがゆえに、女性は男性と同じ位置に立った。 その後、電脳的機械文明の全面的な開花によって、強い肉体の前提が完全に溶融した。 そのため、女性は自らの肉体的な体力に拘束されずに、論理を体得すれば男性と拮抗できるようになった。 肉体的な属性は、社会的な立場とは関係がなくなった。 もはや男性だけが、個体維持という生産労働に邁進する必要はない。 個体維持に後れをとっていた女性も、いまや非力な肉体のままで、男性と対等に個体維持を担える。 妊娠・出産や母性を、自己存在の担保としなくてもすむ。 自らの社会的な存在意義を語るために、女性は母性という擬自然性に言及しなくても良くなった。 肉体的な腕力が無化されたので、子供を産むことを自己の存在証明としなくてもすむようになった。 同時に、性差の無化は男性の暴力性をも無化し、勃起力を低下させ、性交への動機付けを下げた。 論理の発展は、種族保存を肉体による性交から分離させ始めた。 子供の誕生には性交が不可欠だったが、人工授精という性交以外の方法で種族を保存できるようになった。 男女の肉体が接触しなくても、妊娠できるようになった。(注−100) つまり、種族を保存するという目的のために、男性は女性に対して勃起しなくても良くなった。 男性は種から勃起を強制されなくなった。 性交は生殖を目的としてなされると考えているかも知れないが、それはまったくの誤解である。 子供の誕生に、男性の存在が不可欠であるとは、早い時期から知られていただろう。 しかし、性交と妊娠の因果関係を知ったのは、ずっと時代も下ってからだった。 受精・妊娠の仕組みが分かる前から、 人間たちは性交していた。 でなければ人間は、猿から分かれることが出来なかったはずである。 だから性交する理由には、もともと子供を作るという目的はなかった。 性交した結果、子供が出来たに過ぎない。 性交という肉体的接触の真の目的は、親密さの確認だったり、緊張感の解消だったり、支配の確認だったりといった、両者の関係性の確認だった。(注−101) それがいつの間にか、子供が出来る過程が解明されるにつれ、原因と結果が逆転した。 とりわけ機械文明の誕生により、女性が家庭に閉じこめられ、女性の役割が種族保存に特化してからは、性交の目的は生殖だと強調されるようになった。(注−102) 生殖のための性交には、男性の勃起・挿入・射精が不可欠であることは変わりがないが、男女の親密な関係を確かめるためだけであれば、 それらは必ずしも必要とは限らない。 妊娠を目的にするのなら、今や性交より人工授精の方が確実である。 にもかかわらず、人間は性交を止めないし、止める必要もない。 男女が等価になった今や性交が意味するのは、生殖ではなく男女の親密な関係性の確認である。 性交は男女の両性に、相互の喜びを与えあうものとなった。 そのため、男性にとっても女性にとっても、性交という肉体的な接触は同じ意味を持つものとなった。(注−103) 電脳的機械文明は、男性にたいして肉体的に男性は強くあれと言わなくなった。 強い男性という、伝統社会や工業社会の存在証明を不要に した。 肉体的に非力でも、頭脳労働さえできれば、男性の社会的な人間性は充分に確保されるようになった。 しかしそれと同時に、電脳的機械文明は女性の存在様式も変えようとしている。 農耕社会や工業社会では、女性は肉体的な非力さゆえに、社会の矢面に立たずにすんだ。 個体維持を担って生産活動に邁進しなくても許さ れた。 女性の社会的な位置が、男性より劣位なるがゆえに、男性と同じ責任を引き受けなくてもすんだ。 しかし、非力であるという女性の属性は、もはや劣位にいる女性の存在を守らなくなった。 電脳的機械文明は、女性が自然性に安住することを許さない。 子供を産むだけの存在では、女性であることは肯首されても、 社会的な人間であることは満たさない。 いまや女性も男性と同じ役割を、人類にたいして背負うのである。 つまり、個体維持と種族保存を二つながら、男女がそれそれに同じように担えるようになった。 女性は体力的に非力であるがゆえに、女性の自然性つまり母性を自己の存在証明としてきたが(注−104)、もはやそれは許されなくなった。 女性も個体維持つまり生産労働を、男性と同じように背負わねばならない。 女性は子供を産むことで、生産労働につかない自己存在を免責はされないのである。 女性も論理の体得が要求されている。 女性が生み出す論理は未知ではあるが、肉体的には男女が異なりながら、社会的には男性性も女性性もまったく等価になった。 世の多くの女性論者たちは、女性特有の権利を主張するが、そのほとんどが男性の生み出した論理の借用だった。 そうしたなかで、 ハーディのアクア説に基づいて展開されるエイレン・モーガンの論は、極めてユニークでしかも説得力があり、女性が初めて提出した女性解放の論理のように見える。(注−105) 肉体労働が主流だった時代には、男女共に肉体という生理的な事実から自由になることができず、男性性が強さを、女性性が優美さを表現 した。 しかし今や、生理的な事実に規定される性別と、社会的な性差は切り離された。 生理的な男性が社会的にも男性である必要はないし、生理的な女性が社会的な女性である必要もない。 属性としての性別は、種族保存を司る肉体の原器としてのみ残り、それ以外の意味を失った。 肉体的には男女の別はありながら、社会的には男性性と女性性は限りなく接近し始めた。 |
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