近代の終焉と母殺し  1999.3−記

目  次
はじめに 第8章 電脳的機械文明の誕生
第1章 農耕社会から工業社会へ 第9章 男性性と女性性
第2章 自然という神の存在 第10章 フェミニズムの誕生
第3章 神からの距離による正統と異端 第11章 母 殺 し
第4章 神とその代理人たる父の死 第12章 無色となった性
第5章 個体維持と肉体労働 第13章 近代の終焉
第6章 新たな論理の獲得 第14章 純粋な愛情の時代
第7章 機械文明の誕生 おわりに

第11章 母 殺 し

 男性は帰納法的な思考つまり論理的な思考を獲得し、近代の工業社会を作った。
男性は論理的な思考を体得することによって、神の代理人 たる自らの内なる父を否定して、近代の洗礼を受けた。
男性は父という立場を捨てることによって、神から自立した。
言い替えると、内なる神を殺し、かつ父を殺して近代に入ったのだ。
もはや人間の命を、神への人身供犠とすることはあり得ない。

 近代に入るとき、女性は論理的な思考の獲得に遅れをとり、女性の社会的な地位は男性に比べて脆弱化した。
そして、女性の仕事や役割は、家庭内に閉じこめられた。
しかし、女性が男性と同じ立場にたった今、女性にも男性と同じ現象が起きている。
それは女性の自然からの離脱であり、神との絶縁である。
それは言い換えると、神に与えられた女性の立場の否定、つまり女性による母殺しである。

 電脳的機械文明は、社会的な男女差を消滅させたので、男女の社会的な存在様式は同型となったと前述した。
情報社会でも、肉体的な男女差は存在するが、男女の社会的な差はない。
そのため女性だけが、女性である立場に安住できない。
つまりここで女性は、神から与えられた立場を否定せざるを得ない。
農耕社会の男性にとっての立場とは、知や力そして経済力に秀でた父なる地位だった。
男性は自分たちの住む環境を客観視すればするほど、自然や神から離れていった。
男性の父たる地位が、神の代理人たる所以だった。
だから男性は、父を殺さざるを得なかったのである。

 いつの時代でも、すべての男性が父とは限らないし、すべての女性が母とは限らない。
人間は父や母として存在する前に、まず一人の人間 として存在する。
まず裸の肉体が、生活するのである。
そして、その人間は男性であるときもあるし、女性の時もある。
農耕社会では老若を問わず男性も女性も、すべて等しく神の子供だった。
そして、神の子供たちは神の前で結ばれて、父となり母となった。
男性は神の前で父なる地位を手に入れ、女性は母なる立場を手に入れた。
父や母となった人間は、単なる神の子供ではない立場に移った。
神の代理人が父であり、母はその連れ合いだった。

 農耕社会における男性性の社会的表現が父たる立場だったとすれば、女性性の表現とは女性であることではなく、子供を産んだ後で手に入れる母なる立場である。
母こそ男性が入れ替わることが不可能で、人間を生み出すという女性の神から与えられた地位を象徴したものだった。
だから劣位にいた女性でも、子供を産んで母になると、母であるがゆえに男性に対して拮抗する強い発言権が入手できた。
神に祝福される母という立場こそ、男性の父なる立場に相当する女性の地位なのである。(注−118)
聖母や慈母などなど、母を讃える神の祝福に満ちた多くの言葉が、それを証明する。
悪女というように女性を悪者に言うことはあっても、母を悪しざまに言うことは稀だった。 

 男性が父を殺し神から自立したとき、女性は論理的思考の獲得に遅れをとった。
そのため、女性は自らの存在証明を求めて、母なる地位にすがりつかざるを得なかったとは前述した。(注−119)
個人的な肉体としての女性ではなく、母なる地位こそ女性性の表現であり、女性が男性の父なる立場に拮抗して、農耕社会と工業社会をつうじて自らの拠り所としたものである。
情報社会に入ろうとする今、男女の社会的な立場が同じになったので、女性の地位つまり母を、女性自らが否定することが不可避になった。
母の否定とは、母殺しである。
肉体的頑強さという男性性を無化し、父を殺した男性と同様に、女性は今自らの手で、女性性の象徴だった母を殺し始めた。 

 母性なる概念が近代の女性を支えたとすれば、もはや母性という女性への概念付けを引きずることは、女性の社会的なそして人間的な劣性を認めることになる。
女性は母を殺さなければ、女性の工業社会までの拘束性から自由になることはできないし、女性自身の論理つまり自立した精神活動を獲得することはできない。
男性が論理という観念を獲得したように、男女が等価になった今後は、女性だけが母なる地位に生きるのではない。
男性も女性も個人とい う観念に生きざるを得ない。
つまり神の死や父殺しがあったように、女性の社会進出が進む現在、母殺しが進行している。


 男性は神殺しや父殺しを、自ら望んでやったのではない。
自然への根元的な疑問の提示と人間存在への懐疑が、神殺しに連なってしまったのである。
おそらく女性も母殺しを望んではいまい。
しかし、神と共に生きることや、父または母と共に生きることと、人間が論理を獲得することとは二律背反である。
不死の神に淵源を持つ演繹的な思考に止まる限り、人間は帰納法に基づく論理的な思考を体得できない。
だから母を殺さない女性は、論理的思考の体 得を拒否している。
それでは生産労働つまり個体維持を担い得ない。
それは女性自らが、男性より劣位にいることを意味する。
むしろ今まで、母が殺されなかっ たのが、遅すぎたのである。

 神の死は伝統的社会の崩壊を意味し、父殺しは農耕社会までの男性が担った旧体制に対する挽歌だった。
とすれば、母殺しは工業社会までの 肉体支配という旧体制への決別の歌である。
母を殺すことによって、女性は工業社会までの立場による拘束から解放され、男性と同様に裸の個人になることが出来る。(注−120)
そして同時に、母殺しは神の意志に従って 子供を産むことの拒否もしくは否定であり、本能の命令に従った種としての行動を放棄し始めた、全人間に対する鎮魂歌である。

 神からの自立が神殺しであったように、そして、ヒューマニズムが神殺しの思想的な支えだったように、自分たちのよって立つ自然や神の支えつまり母を殺すのも、またフェミニズムなのだ。
男性がヒューマニズムを生み出したとすれば、女性はフェミニズムを生み出し、両者は手を携えて神を死に 追いやっている。
神を死に追いやることによって、人間の生命を至上のものとし、男女が協同して人間讃歌を確立しようとしている。

 「女性抑圧の原因は、生物学的な母性であるとして、フェミニズム革命は野蛮な妊娠と出産から女性を解放する新しい生殖技術によってもたらさ れる」(注−121)

とシュラミス・ファイアーストーンは述べる。
しかし本論では、生理的な事実としての生殖行為や、 妊娠や出産を言っているのではない。
もちろん体外受精やクローンなど生殖技術の進歩が、生殖を肉体から離れさせることを言っているのでもない。

 父を殺しても男性の生理機能にはまったく変化がないように、母殺しと事実としての妊娠・出産とは直接の関係を持たない。
なぜなら男性 が殺したのは、知と力そして経済力に秀でた立場にいる父であり、生殖能力をもった人間としての男性自身ではない。
そして、女性が殺すのも、子供を産んだが ゆえに手に入れる立場としての母であって、生殖能力をもった女性自身を殺すのではないからである。
女性が母を殺しても、今後永久に女性が子供を妊娠・出産するであろう。(注−122)

 工業社会まで、労働が頑健な肉体に支えられていたので、事実としての肉体が社会性としての肉体に直結し、女性性が妊娠・出産という自然つまり神を包含していた。
女性が子供を産むことは自然の摂理だった。
生命は神の領域に属し、人間が触れてはいけないことだった。
だから神が要求したとき は、人間は人身供犠として自分の命を差し出さなければならなかった。
農耕社会ではもちろん工業社会でも、妊娠・出産は神の御手にあったのだ。
それは21世紀直前の現時点でも基本的に崩れていない。
しかし、情報社会では生命そのものを、人間が扱うことを予測させる事象が生起している。
ここで人間は、ほんとう に神の住む領域へ足を踏み入れるのである。

 近代という工業社会では、神が祝福する生理としての妊娠・出産を、そのまま女性の社会的な立場と見なしてしまった。
女性を一人の裸の人間として、社会に存在させることが出来なかった。
女性を男性と同種の観念する生き物とは見なせなかった。
霊と肉が対立すれば、霊が優先する。
そのため、男性は女性を劣等とな存在と見た。
しかし今や、事実と観念の距離を、測定できるようになった。
事実としての肉体と社会性としての人間が分離し、観念が 事実を乗り越えていくことが可能になった。
それがとりもなおさず、母の否定であり、母殺しである。

 神から祝福を受けた母なる立場は、もはやその輝きを失った。
工業社会まで、母は偉大だと男性からも賞賛された。
しかし情報社会では、 母は決して偉大ではなく、肉体を持った一人の女性に過ぎない。
情報社会では男性は父なる地位には、自己の存在証明を見いださない。
同じように立場としての母に、女性は存在証明を求めることが出来ない。
女性が自然や神に守られた立場を自ら捨てること、つまり女性が母を殺すこと、これが女性にとっての自立であ る。

 男性が神を殺して以降、男性は好色となったが女性は淫乱にとどまった。
しかし、女性が神殺しに参加してからは、 女性も好色の世界へ入った。
だからフェミニズムは、女性の性意識を観念の支配下へと誘い、

 「はてしなく欲情し、はてしなく奪え!」(注−123)

と、女性も男性と同じ性交の自由、つまり性交しても妊娠しない体を求めて立ち上がった。
ちょうどその時、偶然は女性に味方した。
手軽で 確実な避妊方法つまりピルの登場が、女性の好色さを支えて、それを加速したのである。
ピルをのめば妊娠しない。
ピルによって、それまで男性だけに許されていた性交の自由が、女性にも解放され始めた。
わが国ではやっとピルが解禁されてた状態だが(注−124)、西洋諸国では女性は性交しても妊娠しない体を、すでに獲得している。

 情報社会の入り口に立ったわが国でも、やっとピルが解禁され、女性にとっても性交は観念の支配下に入り、女性も確実に好色化してい る。
その社会的な表現が、純潔貞操教育の放棄であり、処女性の嫌悪であり、売春への素人の参加であり、出生率の低下である。
すでに男たちは父を殺してい る。
今、母が殺されている。
近代の入り口で、男性が神を殺し父を殺したとすれば、電脳的機械文明の誕生と共に、女性が母を殺し神の死にとどめを刺してい る。

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