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第12章 無色となった性 フェミニズムと同時に顕著になった現象は、ゲイの台頭である。同性愛もゲイもともに、昔からあったと誤解され易い。 しかし、同性愛とゲイは似てはいるが、違うものである。 「愛者にとっては愛する少年を持つこと以上に大いなる好事が在るとは主張し得ぬのである」(注−125) とプラトンが謳ったギリシャの男性愛やわが国の陰間(注−126)、そして映画「ヴェニスに死す」でルキノ・ヴィスコンティ監督が描いたような関係は、ゲイではなく同性愛である。 同性愛つまり男色とは言い換えると、「少年愛の美学(注−127)」とも謳われたように、中高年の男性と思春期の少年との肉体関係である。(注−128) ところがゲイは、年齢も社会的地位もほぼ等しい成人男性や女性間の性関係である。(注−129) 農耕社会という長い人類の歴史においては、より長い経験が知の質を支えたから、より長く生きた人つまり老人の智恵が大切にされた。 そのため、成人男性が年少者の上に立つことは、体力に秀でた男性が女性の上に立つことと同様に、無前提的な常識だった。 成人男性が年少者と性的にも親密な関係を結ぶことは、高齢者が若者を指導するという世の秩序に従ったものだったので、同性愛は世界中の至る所に存在した。(注−130) とりわけ近代的な学校のない農耕社会では、同性愛は世代を越えて文化を伝達させる、いわば教育方法の一種でもあった。 同性愛は、いつの時代でも農村部・都市部を問わず、どこにでもあった。 今日から見ると不思議に思うかも知れないが、成人男性にとっ て、女性と性交することと同性の年少者と性交することは、ともに同じ種類の性愛の行為であった。 両者の間には、何の違いもなかった。 いずれも成人男性のほうが社会的 な優位者だったから、成人男性が積極的にかかわる限り、より劣位にある者を愛することにおいては同じ意味だった。 相手が女性か少年かは、太った女性か痩せ た女性かと言った程度の違いしかなく、性愛の対象が少年であるか女性であるかは、大きな問題にはならなかった。 例えばギリシャの例で言うと、 「自分と同じ性の人間と寝た人間は、自分が同性愛者だとは感じなかった」(注−131) と、M・フーコーも言っているように、ことさら同性を愛するという意識が発生しなかった。 わが国の例で言っても、江戸時代の歌舞伎の若 衆役者が男性の相手をしたり、男色という同性愛は文学の対象にもなっている。 決して日陰の存在ではなかったし、一つの性愛としてとらえられていた。 そし て、陰間茶屋という男色を売る制度すらあって、同性愛は異性愛からの逸脱を表すものではなかった。 つまり今日言うように、同性愛は異性愛の反対概念として存在したのではなく、自分より劣位にある者をかわいがる性愛の一種として存在したのである。 しかし、ゲイは違う。 ゲイは、人間を年齢によって上下と見ることには無縁で、肉体関係によって確認される年齢秩序の安定化から逸脱す るものだった。 だからゲイの存在は、秩序の上位者や秩序そのものに対する反逆を意味した。 年齢秩序の否定は、経験の蓄積によって支えられていた農耕社会そのものの崩壊を意味したので、ゲイつまり成人男性同士の同性愛は絶対に許されなかった。 農耕社会の一員である自分の存在基盤がおかされるがゆえに、男性の 同性愛を許容した女性たちですら、ゲイには非常な嫌悪を示した。 ゲイは年齢秩序を無視する行為だったがゆえに、農耕社会のあらゆる場所でタブーとされた。 つまりゲイの登場は異性への嫌悪ではなく、 高年齢者が優位であるという年齢秩序に対する挑戦だったのである。 それを知れば、ゲイは個人が確立した都市でしか生息できないことも、簡単に了解できるだろう。 エヴァ・クールズは、次のように言う。 「成人男性同士の同性愛は社会の秩序に対する反逆なのである。年齢も社会的な地位もほぼ等しい二人の成人男子の相互的性関係は、夫が妻 の、男が売春婦の、成人男性が少年の上に立つといった権力構造の基盤としてセックスを利用することを否認することなのだから。真の男性同性愛がほとんど全 世界的に非難を受けているのは、…おそらくそれが理由であって、同性愛が『不自然』であるためでもなければ、それがセックスと生殖の連関を断ち切るためで もない」(注−132) 情報社会に入りつつある現代に台頭しつつあるゲイは、フェミニズムがめざす女性解放と同様に、すべての人間が平等になることを指向する運動のひとつである。(注−133) ゲイに対応する日本語は、同性愛だと誤解されている。 同性愛に対応する言葉はホモ=ホモ・セクシャルであり、ゲイに対応する日本語はいまだない。 ちなみに、ホモは蔑視を含んだ否定的な響きを持つが、ゲイは同性愛者であることを自ら主張する、プライドに満ちた明るく肯定的な言葉である。 いまだ誰も、女性が神を殺し、母を殺していることに気付いていない。 ゲイの解放と女性の台頭が、同じことの裏表だと気づいていない。 同時代の女性たちは、自分が解放されたことを自覚できない。 女性も論理的思考を手に入れることに、女性たちは無自覚である。 だから個体維持つまり生産労働を、必ずしも男性と並んで背負おうとしない。 いまだに女性を男性の被害者と見ている。 女性は女性の存立基盤を、男性とは別のものとして創るつもりなのだろうか。 女性の社会進出、それは男性の論理が促した。 にもかかわらず、一部の女性たちは、ワイフの運動(注−134)やアンペイドワークの評価(注−135)など、何も生産しない専業主婦の存在証明を捜して、徒労な作業に血道を上げている。 フェミニズムを生んだアメリカの女性解放運動を見れば判るように、女性の解放は専業主婦の家事放棄という形で始まったのである。(注−136) 彼女たちは養われる存在であることに耐えられず、愛する子供への思いを一時的に断ち切ってまで、言い換えると母を殺してまで、経済的な自立を求めた。 女性の自立は、決して若い女性や未婚の女性から始まったのではない。 それゆえ、専業主婦であり続けようとすることは、女性の自立からは反対の方向にいるのであり、女性の解放を遅らせることである。 末包房子は「専業主婦が消える」(注−137)という本を書いて専業主婦からの脱却を訴えるが、わが国の女性論者のなかで、正面から専業主婦を否定する人は少数である。 懐古的な男性だけではなくわが国の一部の女性たちは、子供以外の何も生産しない核家族へと、男性を引き戻そうとしている。(注−138) 男性に対して、仕事を減らしてまで、家事に参加せよと言っている。 女性が自分自身で自立するのではなく、男性を属性の支配する核家族へ引き寄せ、男性に寄り添う形で生活を作ろうとしている。(注−139) そのような動きは、生産性の低下を指向するもので、歴史の流れに反している。 生産性が低下したら福祉の充実どころではなく、現人口すら養えなくなる。 男性の子育てへの関わりは不可欠だが、女性の経済的な自立は急務である。 切れる子供批判を梃子にした核家族の見直しなど、いまだ日本の女性運動は迷走中としか言いようがない。 フェミニズムがいう社会的な性差の否定は、男性に性差別を禁止すると同時に、女性にも女性であることを理由にさせない。 生物学的な男女という肉体的な属性は、社会的な性差に直結しないと言うのが、女性の社会進出を支えている理論的な支柱である。(注−140) 男女間の生物学的な違いを認めた上で、フェミニズムは男女の社会的な等質性を主張している。 だから、「われわれ女性に固有の」という言い方は、もはや単に愚かさと無知を表しているだけである。 時代を先取りしやすい服飾や衣料分野で、ユニセックス化が進んでいるように(注−141)、多くの分野で男女の差異はなくなっていく。 社会的には、男性に男性という特権がないのと同様に、女性にも女性という特権はない。 現実には女性差別は山のように残っているが、性差の無化をめざしたフェミニズムは、母を殺し男女の等質化を指向した。 フェニミズムに逆らって女性差別を残していては、男性の解放もあり得ない。 個人的な関係においては男女共に性的な存在でありながら、社会的な性別は意味を失い、無色と なったのである。 母を殺し、神殺しに参加したたくましい女性は、今後は男性と並んで嵐の前に立つ。 |
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