近代の終焉と母殺し  1999.3−記

目  次
はじめに 第8章 電脳的機械文明の誕生
第1章 農耕社会から工業社会へ 第9章 男性性と女性性
第2章 自然という神の存在 第10章 フェミニズムの誕生
第3章 神からの距離による正統と異端 第11章 母 殺 し
第4章 神とその代理人たる父の死 第12章 無色となった性
第5章 個体維持と肉体労働 第13章 近代の終焉
第6章 新たな論理の獲得 第14章 純粋な愛情の時代
第7章 機械文明の誕生 おわりに

第14章 純粋な愛情の時代

 現代人は自分の手で、神つまり自然を殺してしまった。
もはや神のために、人身御供として人間の命を捧げることもないし、殉教して神に自分の命を投げ出すこともない。
出会うことのない神より、人間の命のほうが大切である。
そして、生まれつきの支配者という特権的人間を認めず、男性も女性も全ての人間が等価だ、と言って自立した。
だから人間を、無条件で受け入れてくれる寛容な神や自然はもう存在しない。
現代人にある自然は、観念によって意 識された自然であり、生の自然ではない。


 近代的な工業社会の発展のために、開発と称して地球環境を汚染し破壊してきた。
都市への人口の集中も経験した。
しかし、一度は汚濁した河川もを浄化できた。
都市に緑を増やすこともできた。
そして、人間の寿命さえ延ばすことが出来た。
だから人間は、人間をも含んだ環境を、より快適に作り直すことが出来る。
問われるべきは、いかに環境を作るかである。
もはや、地球それ自体を人間が管理し、作り替えなければならない。
「自然の権利」を謳うのではない。(注−153)
地球という環境も組み替えの対象であり、人間の労働や生産力を投じる対象である。


 地球上には、今でも農耕社会に生きる人々もいるから、伝統的な社会も存在する。
いやむしろ、世界人口の過半数もしくは3分の2は、貧富の差が激しい農耕社会に生きている。
そこでは宗教や呪術が、いまだ現役である。
そのため世界的な視点で見ると、前近代・近代・後近代が併存していると言 うべきである。
しかし、先進的工業社会において近代が終わった今、人間存在が完全に神つまり自然を離れることが明らかになった。
近代の入り口では、人間存在が自然から離れる恐怖に耐えかねて、神秘的なものが流行ったり、自然に帰れと叫ばれた。(注−154)

 西洋に生まれた近代の有効性が凋落したと見なされると、わが国に固有の歴史や、古き良き伝統的な社会が見直される。
近代なる概念は西洋にのみ有効で、わが国には違う道があると言われもする。
それは戦前すでに「近代の超克」(注−155)と言った形で語られもした。
現在も「父性の復権」(注−156)や「古き良き家族の見直し」が言われる。


 伝統的な社会から近代社会への転換は、環境の悪化、没落する人々の発生など様々の弊害をもたらしたことは事実である。
また、先進国が豊かな生活をするために、途上国の人間や財が収奪されてもきた。
しかし、前近代は多くの非識字者をかかえ、非衛生的な環境による短い寿命、厳しい身分秩序に縛られていた。
被支配階層に生まれた90%の者は、能力があっても貧しい生活に甘んじなければならなかった。


 多くの農耕社会では生まれた人間が、20歳まで成長できる可能性は40%くらいだった。
そして、平均寿命は40歳くらいだった。
それは大昔のことではない。
驚くかも知れないがアンソニー・デギンズによれば、


 「近代初期のヨーロッパでは、乳児の4分の1 強は、生まれても1年以上生存することが出来なかった」157

のである。
いまや平均寿命が80歳になるわが国の例でも、1925年(大正14)当時は農耕社会だったので、人口の年齢別構成は人口ピ ラミッドという言葉が示すように、そのグラフは二等辺三角形となって表れた。
つい最近まで、30歳まで生きることができたのは、2人のうちの1人だった。(注−158)
女性はその一生で多くの子供を産んだかも知れないが、またたくさんの人間が、天寿を全うすることなく死んだのである。
人間はいつも死と隣り合わせで生活していた。


 近代の初めには、厳しい環境で長時間にわたって働かされた。(注−159)
しかし、近代の終わりの今やっと、労働時間も徐々に短くなり、辛うじてだが男女の平等も射程に入った。
医療が整備されて、身体が壊れても座して死を待つだ けではなくなった。
乳幼児死亡率は劇的に低下し、多くの人々が天寿を全うできるようになった。
リチャード・ドーキンスは


 「福祉国家というものはきわめて不自然なしろものである」(注−160)

と言う。
しかし、個人なる概念が確立したので、自然の秩序から見れば不自然きわまりない社会福祉も肯定され、幸いなことに人間社会に取り入れられるようになった。


 誰もが死と隣り合わせだった属性の支配する伝統的な社会に戻るのではない。
現代社会の克服すべき課題は、神との共存ではない。
終わっ た近代を、より進める形で解決されなければならない。
より多くの人間が、少ない資源で、より快適な生活を実現できるよう、人間はその知恵を使うことができる。
人間の知恵が充分に開花するように、環境を変え社会の仕組みを根底的に作りなおそう。


 電脳的機械文明にあっては、知の質は経験の長短とは無関係だから、加齢が優れた知を作るとは限らない。
そのため、生涯にわたっての学習が不可欠になり、年齢による社会的序列は無意味になる。(注−161)
先生とか、親とか、上司とかは、半ば属性化した地位や身分を表すがゆえに、滑らかな人間の関係をつくる上では桎梏となる(注−162)


 人脈がものを言う閉鎖的社会は、どんな個人の能力でも充分に開花できるように、「公正」が価値である社会へと変えなければならない。
公正が支配する社会では、立場や属性の保護を失った人間は、個人化せざるを得ないし孤独である。
しかし、孤独になったがゆえに、裸の個人と個人が横に並んで、平等で親しい関係を楽しむのが今後である。

 工業社会が混沌で開幕したように、工業社会の終盤も混沌が支配する。
神も父も母も殺した人間は、言葉の意味のとおりに荒野をさまよう生き物になった。
今後は神という自然は人間を支えず、純粋な愛情という人間の観念だけが頼りの綱である。
生ませの父は男性しかいなし、生みの母は女性しかいない。
自然の摂理は今後も変わらない。


 育ての父は男性とは限らないし、育ての母が女性である必要もない。
男性が父性を担い、女性が母性を担うという工業社会までの常識は崩れた。
母殺しを前提にした後近代の考察が不可欠である。
伝統的な社会へと戻るのではない。
近代を踏み越えて、後近代の思想や哲学を作らねばならない。

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