近代の終焉と母殺し  1999.3−記

目  次
はじめに 第8章 電脳的機械文明の誕生
第1章 農耕社会から工業社会へ 第9章 男性性と女性性
第2章 自然という神の存在 第10章 フェミニズムの誕生
第3章 神からの距離による正統と異端 第11章 母 殺 し
第4章 神とその代理人たる父の死 第12章 無色となった性
第5章 個体維持と肉体労働 第13章 近代の終焉
第6章 新たな論理の獲得 第14章 純粋な愛情の時代
第7章 機械文明の誕生 おわりに

第10章 フェミニズムの誕生

 長い人類の歴史の中では、男性だけが働いてきたのではない。
女性は田や畑で男性に交じって働き、家の中でも働いてきた。
労働時間だけを比較すれば、男性より女性の方が長く働いている。(注−106)
しかし伝統的な社会では、個体維持に屈強な肉体が不可欠だったので、男性一般が上位価値とされてしまった。
個人的には有能な女性であっても、社会的には男性の後塵を拝さざるを得なかった。


 機械文明の近代へ入っても、肉体的な腕力が不可欠であったので、女性は男性に対して劣位にあることは変わらなかった。
むしろ、近代に はいると男性が論理的思考を体得し、男性の仕事場を飛躍的に増加させた。
そして、それまで女性が行ってきた仕事を、機械が代替するように男性たちは働く場を作り替えた。
近代文明は、糸紡ぎとか機織りとかと言った伝統的な生産労働を、女性からほとんど奪ってしまった。
オリーブ・シュライナーは次のように言 う。


 「近代文明は女性から伝統的な仕事をほとんど奪ってしまった。社会は男性には怠惰になることを許さないが、女性には『性的寄生虫』となることを奨励している」(注−107)

 農耕社会では、田や畑で男性と一緒に働いた女性は、男性とともに個体維持をも担っていた。
男女ともに、過酷な農作業に良く耐えてきた。
しかし、工場労働が主流になるに従って、女性は働く場を探せなくなった。
近代工業社会は、女性の働く場を奪い、女性を非生産的な家庭へと押し込めた。


 田や畑における生産労働という仕事を失った女性は、生きる場所を家庭へと絞り込まれ、個体維持からその役割を外された。
工業社会の家庭は、子供以外には何も生産していない。
女性の役割は種族保存に特化させられ、子供を産む生き物と見なされ始めた。
近代という工業社会は女性をして、専業主婦という男性の性的寄生虫になるよう促し始めた。
男女の役割は質的に異なり、両者は画然と区別された。
母性や女らしさの強調といった女性の生理になぞら えた主張、つまり人間の自然的な属性への依拠は、女性に関する限り近代になってからの方が強い。
水田珠枝は女性史研究のなかで次のように言う。


 「市民階級が未成熟であった時期には、この階級の女性は、夫とともに経営に参加し、相応の発言権をもつ場合もあったのだが、…この階級が政治的にも経済的にも飛躍的に成長すると、女性の地位は向上するどころか、反対に女性たちは社会的活動から排除されていった」(注−108)

 19世紀的な機械文明の段階でも、ジェシー・ブシェット(注−109)やスーザン・アンソニー(注−110)のように男性に互して、社会的な活動を指向した女性もいた。
歴史をひもとけば、西洋でもわが国でもそうした女性を簡単に見つけることができる。
女性運動はいつの時代にもあった、と言った方がむしろ適切であろう。
この時代の女性運動は、人類の始まりを母権制社会に求めた。
しかし、論理と共に屈強な肉体が支配した社会では、女性の社会活動はその果実を収穫できなかった。
電脳的機械文明が開花する前の女性運動は、腕力の劣性をどうしても克服できず、女性は非力な体力という自然の支配から脱皮できなかった。
そのため女性は不可避的に、男性の後塵を拝することになった。
例えば、わが国の例で言うと、


 「日中戦争が始まると、ファッシズム動員は本格化し、国民精神総動員運動の委員として、吉岡弥生や市川房枝は指導的な役割を負うことになる」(注−111)

 高名な女性史研究者だった高群逸枝の例が示すように、むしろ女性自身の生活が脅かされると、男性の暴力的な戦争賛美へと同化しさえした。(注−112)
電脳文明以前の女性の社会活動は、労働が頑健な肉体に支えられたがゆえに、今日に言うフェミニズムに孵化する条件を持たなかった。
それらは女権拡張運動であり、女性は弱者であるという女性の属性に基盤を置いたウーマニズムに過ぎなかった。

 工業社会の終盤になると、先端的な女性運動はウーマン・リブを生み出した。
ウーマン・リブは観念する女性運動だったが、女性固有の権利なる概念から自由になれなかった。
ウーマン・リブは、女性が産む性であることに拘ってしまった。
その理由は、もちろん機械文明がいまだ主流であり、電脳 的機械文明が未発達だったので、体力の劣性を出産で担保せざるを得なかったからである。
20世紀も終盤になって、電脳的機械文明が労働から肉体という属性を解放した。
そのため、男女の生理的な違いを認めると同時に、社会的な男女の等質性を謳うフェミニズムがやっと誕生した。

 フェミニズムは、個人としての男性や女性がセクシーであることを肯定し、男女ともに性的存在であることを認める。
フェミニズムは男女が違う生き物だと認識するがゆえに、男女の相互依存性を認識している。
ウーマン・リブまでの女性運動は、女性による女性のための女性だけの運動だった。
女性が男性と同じ社会的な立場を獲得する目的はフェミニズムと同じだったが、ウーマン・リブまでの女性運動は、女性の肉体的な属性を運動の原点に据えていた。
そのため、 女性の運動から脱皮できず、社会全体へとその勢いを拡張することが出来なかった。
それは、時代のなせる限界であった。


 フェミニズムは個人的には女性であることに徹底して拘りながら、社会的には女性であることによる特別の権利を主張しない。
生物学的な男女という肉体的な属性は、社会的な性差に直結しないと言うのが、女性の社会進出を支えている理論的な支柱である。
フェミニズムがいう社会的な性差の否定は、男性に性差別を禁止すると同時に、女性にも女性であることを理由にさせない。
社会的には、男性に男性という特権がないのと同様に、女性にも女性という特権はない。
だからフェミニズムは、社会的な男女の等質性を過激に主張できる。


 体力の劣性が無化したので、女性は出産・子育てを自己の存在証明としなくてもすむようになった。
そして、フェミニズムは出産を性交から引き続く個人的な行為と見なし、子育てを社会的な行動だと見なすことによって、両者を異なる次元のものへと分離させた。
フェミニズムは女性固有の生理に 基づく主張を手放すことによって、男性と同じ社会的人間であることを獲得した。
子供を産むことは女性の生理的な行為であるが、子供を育てることは女性だけに科せられた義務でもないし権利でもない。
子育ては、男女両性の人間としての義務であり権利である。


 フェミニズム以前の女性運動は、自己の正当性の根拠として、人類の始まりを母権制社会に求めざるを得なかった。
しかし、出産と子育てを切り離したので、もはや母権制社会を云々する必要はなくなった。
ヒューマニズムが男性だけのものではないのと同じように、フェミニズムは女性だけのものではなくなった。
男性はウーマン・リブには参加できなかったが、フェミニズには女性と一緒にかかわることができる。
フェミニズムは男女の性的な違いを認めることによって、男性をもその射程に巻き込んでいる。


 最後まで残った女性という被抑圧者たちを解放し、すべての価値を握っていた男性と同等の人権を与え、人類の半分を人間として自立させたのは、子育てから女性を解放したフェミニズムである。
20世紀に人類が作り出した最大の思想は、ウーマン・リブという揺籃期のちに生まれたフェミニズムである。
フェミニズムは肉体的な性別を問わない。
電脳的機械文明に促されたフェミニズムが、女性を男性と同じ社会的な動物へと力強く変身させた。


 芋虫とチョウチョが別物であるように、女権拡張運動やウーマニズムとフェミニズムは違うものである。
たとえ、フェミニズムという言葉が使われていても、今日のフェミニズムと電脳社会以前のそれは、違う概念と言わなければならい。
フェミニズムの起源を18世紀や19世紀まで遡ろうとする人は、芋虫とチョウチョを同一視している。(注−113)
また、

 「女性の抑圧を解明するフェミニズムの解放理論には、次の三つがあり、また三つしかなかったと言える。 1 社会主義婦人開放論 2 ラディカルフェミニズム 3 マルクス主義フェミニズム」(注−114)

と上野千鶴子は言うが、彼女は現代のフェミニズムがよって立つ基盤を理解してない。


 「フェミニストの視点からマルクスの原典という聖域を侵犯し、その改訂を辞さない一群のチャレンジングな人びとだけを、私はマルクス主義フェミニストと呼ぶ」(注−115)

 と言って、この論者は三つののフェミニズム理論から、マルクス主義フェミニズムを暗に称揚する。
しかし、マルクス主義の根底を支えるのは労働価値説であり、マルクス主義がいう労働とは肉体労働に他ならない。
フェミニズムは肉体労働ではなく、頭脳労働のうえに花開いたのだ。
マルクス主義とフェミニズムの結合が、もっとも悲劇的な結末を迎えることは、マルクス主義の生い立ちを考えれば説明するまでもないだろう。(注−116)

 今日のフェミニズムは電脳的機械文明の上に花開いたものであり、労働における体力の無価値化が女性の台頭を支えているのである。
ケイト・ミレットのごとく、

 「男性優位主義は、…最終的には体力に宿るものではなく、生物学とは無縁の価値体系を受け入れるところにある」(注−117)

と男女の体力差を無視してフェミニズム論を立てても、政治的には意味があっても現実に迫る力を持たない。

 わが国の女性運動には、近代化が女性存在を歪めたという認識はほとんどない。
最近でこそ近代が女性存在を貶めたという人も出始めたが、むしろ近代化が不十分だから、女性が抑圧されていると見なしていた。
今日のフェミニズムは電脳的機械文明の上に花開いたものであり、労働における体力の無価値化が女性の台頭を支えている。
言うまでもないことだが、現代の農耕社会つまり第三世界の国々にあるのは、女権拡張運動やウーマニズムであってフェミニズムではない。


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