考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

12.個 室    その4

 現在、日本で子供部屋がつくられている本当の理由は、子供に自立心をつけるためではなく、親の生活から子供を遠ざけるのが心の隅にあり、そして、それが自分たちが子供だった頃、自分の場所、自分の部屋が欲しかったというノスタルジアによって、倍加して実現しているといったところが真相ではないでしょうか。

 子供に自立心をつけるためというタテマエを、付与しているだけだと思います。
ですから、育児に手間のかかる、そしてまだ何もわからない乳幼児の時代は、親の育児上の便利さによって、子供を親の寝室におきます。
そして、少しものがわかるようになると、別の部屋つまり子供部屋にしたがるのが、どうも本当のところだと思えてなりません。
そして、これがホンネだとしても、匠研究室はこれに賛成します。
むしろ、やっかいなのは、親の気持として、こうした事実を認めたがらないことです。
小学校の入学頃に、子供部屋をつくるのは本当に子供のため、子供に自立心をつけるためだ、と信じて疑わないことこそ問題ではないでしょうか。

 親が、人間として欲望をもっている存在で、それを満たすのが公許された夫婦です。
そして、夫婦がその家の中心であるなら、何を置いてもまず第一番に、夫婦の寝室はきちんと確保されるべきです。
しかし、現在つくられているような子供部屋は、再考を要します。
親であるあなた、あなたは小さい頃、とうとう自分の部屋をもたずに成人してしまいましたが、一人前のおとなになれませんでしたか。
あなたは自立心をもてませんでしたか。

 いま本論を読んでいるあなたは、自分の家をつくろうとしているのですから、しっかりとおとなになっているはずです。
子供部屋がもてなかった、子供部屋が欲しくて仕方なかったあなたは、にもかかわらず充分に立派なおとなになったではないですか。
それはあなた自身が証明しています。
ここまで書いてきて、それでも子供部屋をつくることに私は賛成します。
何のため、おとなの生活を守るためにです。

 おとなの生活を守るための子供部屋作りとなると、現在の子供部屋とは、およそ趣きが違ってきます。
おとなの生活の何を守るのでしょう。
夜の夫婦生活、もちろんそれもあります。
しかしそれは一部です。
本当に子供から守らなければならないのは、おとな自身の人間としての生き方であるはずです。
自分が、人間はかくあれと思っている姿を子供にみせる、つまり、自分の生き方を、子供部屋にも反映させる以外にはありません。
それが可能なら、子供部屋は居間の一部でも良いし、廊下の片隅でも、ちょっと広めの押入れのなかでも、どこでも良いはずです。

 いつの時代でも、子供は親を乗り越えていくものです。
本当の自立心が発揮された時は、必ずしも親の望むようなかたちばかりだとは限りません。
親が子供のためを思い、親のほうから自立心を与えると称して、密室を与えることは必ずしも肯首できません。
子供は夢をみる存在です。子供は、夢として子供部屋を欲しがるでしょう。

 子供は次の社会を担う者です。
次の社会は、善かれ悪しかれいまの社会の産物です。
いまの社会の主人公たる親は、自分の属する社会の価値を、すべて背負って子供に接する時、子供を一人の人格としてあつかっているといえるし、子供の自立心が語れるはずです。
ところが、現在の子供部屋のつくられ方は、むしろ親の一種後向きの態度によるといえます。
おとなの価値体系を伝えるべきものとして、子供に対してはいません。
おとなになってしまった、自分の子供時代の思い出を、子供という対象にあてはめて実現しているといえます。
親は子供部屋を与えることで免罪され、子供をしつけることを放棄しているといっては過言でしょうか。

 現在の子供部屋は、子供のためと称して、子供におとなの世界をみせなくする役割を果たしてすらいます。
生まれた時から、子供を独立した人格としてはみないで、半人前の子供として、親である自分たちに便利なように育児をしている、とすら思う時があります。
それは、夫婦の関係がまだ確立せず、換言すれば夫婦の寝室が密室化しないで、親が子供に生のまま接していることを、意味しているのかも知れません。
それは多くの場合、女親が夫よりも子供に対して、深い思い入れをする姿となって表われます。
男親が労働戦士として、過酷なまでの会社奉仕を要求され、就労しなければならない現実が、こうした家庭状況を生み出しているのかも知れません。

 個室と称されるものは、もう一つあります。
それは、老人室と呼ばれる部屋です。
老人室とは、何といやな言葉でしょう。
子供部屋が積極的につくられているのに対して、老人室という響きはもうはじめから後向きです。
老人室として、ある個室を特定できるのは、老人がその家の中心的存在ではなくなったことを示しています。
つまり、老人それも多くは一人の男もしくは女が、その家のなかである役割を終了したことを意味します。

 男と女の両方が健在の場合は、老夫婦と子供(=孫)という関係が、家庭内に成立します。
といぅのは、多くの場合、老夫婦が健在の期間は、老夫婦に経済的主導権があったり、孫が幼年であったりして、子供の希望と老夫婦の価値観がまともにぶつかることはありません。
孫の成長とともに、たいてい老夫婦のうち男のほうが先に死亡し、老夫婦の経済が、若夫靖に依存するようになってきます。

 徐々に老人は、人生の第一線から退いていきます。
それと同時に、子供が成長し、若い世代の価値観を身につけ、老人たちの価値観と衝突するようになります。
かつての大家族の時代には、若夫婦たちが親として、老夫婦と同質のおとなの世界をつくって子供に対応したため、この衝突は必ずしも老人側の敗北とはなりませんでした。
しかし、現代では必ず老人が敗けます。
これはいうまでもなく、戦後、それまでの価値観が大きく変化したためです。

 老人室の登場は、その価値を担う世代間の衝突を意味しています。
世の中の価値の変動が、家庭内で再演されているにすぎず、世の中で勝つほうが、家庭内で勝つのは理の当然です。
ですから、老人室の登場は、単なる肉体的老化に対する、休養の場としての個室という意味にはとどまりません。
老人を思いやる善意によって、生み出されたところがやっかいなのですが、老人室は、老人と老人たちが担った価値観の隔離を意味しています。
家の主導権が若夫婦に移り、若夫婦は子供に重点をおき、老人をもはや主流とは認めず、過去の人としてあつかいます。
子供は、それを冷静にみています。

 かつての家は、カッチリと壁で間仕切られてはいなかったため、誰にとっても家中が自分の場所であり、かつ誰の場所でもない、という不限定な雰囲気をつくっていました。
それに対して現代の間取りは、個室の集合体となったため、ここは誰の部屋とはっきりと特定します。
誰の部屋と特定することは、それ以外の者には、自分の部屋ではないことになります。
それゆえに、主導権を失った者にとっては、家中からしめだされる結果になります。

 老人たちは、特別に自分用に区切られた老人室なる部屋を避難場所とし、自分と自分の価値観を確認します。
かつては、家の中の全部が誰のものでもないがゆえに、家中が老人の身のおき所としてあり、昼間は茶の間のつづき、夜は襖をたてた四畳半、こういった場所でも老人には充分でした。
肉体的疲労をとるだけなら、閉ざされた老人室は不用です。
何百年もの長い間、私たちはそれでやってきました。

 戦後、核家族化の進行と同時に、古い価値観をすててきました。
現実的には、それは老人たちのかつての生活自体の否定でもありました。
しかし、さすがに老人をすてるわけにはいきませんでした。
そこで、老人と一緒に住まざるを得ない家族たちは、老人の聖域として、老人室なる個室を生み出しました。
そして、老人自身もその部屋にとじこもり、自分の世界を守りました。
現代の建築主や設計者たちは、それを陪黙のうちに知っているため、家の一般的価値を遡及させない部分として、老人室を設定します。

 こうしたからといって、その家庭が老人を虐待しているわけではありません。
むしろ、老人室は家中でもっとも条件の良い、つまり、静かで日当りの良い場所に設けられている例が多いでしょう。
そして、こうした家では家中が老人を大切にしているでしょう。
しかし、家の人びとの主観的な意図はどうあれ、老人を人生の現役とみてはいない家作りに違いありません。

 家族以外を通じて社会と接触している老人、例えば政治家や会社の社長には、個室としての老人室では不十分です。
きちんと家の体をなした間取りが必要となります。
何十歳になっても、また寡夫(稀)となっても、現役として仕事をしていれば、老人室にとじ込めるわけにほいかず、独立住宅の機能が必要です。
そぅした現役の老人が、若夫婦と一緒に住むとすれば、それは当然のこととして二世帯型住宅というかたちになってきます。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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