考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

11. 居 間     その1

 家庭の家庭としての存在意義は、居間にあります。
食べるだけならレストラン、入浴なら銭湯やサウナ、休息や睡眠ならホテルといったように、それらは家庭の外にも代替品が存在します。
けれども居間というのは、家庭を除いたらどこにもありません。
それほどに居間は、住宅を住宅たらしめ、家庭を家庭たらしめている部屋です。

 私たちが小さかった頃は、茶の間という部屋がありました。
しかし、もはや茶の間は死語に近く、それは居間とかリビングルームという言葉に置き換えられています。
ところが、正確にいうと、かつての茶の間は、いまいうところのリビングルームとは少し違ったものでした。
居間とか、リビングルームと呼ばれるようになって、何が変わったのでしょうか。
それは、茶の間の性格分化だったと思います。

 茶の間は、かつて台所の隣りに設けられた何でも部屋でした。
茶の間では、台所でなされた作業以外のすべてのことがなされました。
いやひょっとすると、本来台所でなされて当然の作業、つまり、さやいんげんのへタ取り、里芋の皮むき、黒豆の煮込みなどまでなされました。

 もちろん、小さな子どもの勉強、来客の接待、アイロンかけから繕いもの、家族の団らん、本当に何でも次から次へと、茶の間は利用されました。
そのたびにちゃぶ台を出したり、しまったりしました。
そして夜になると、全部かたずけて布団が敷かれ寝室にもなりました。
まさに、茶の間とは、台所の隣りに設けられた何でも部屋でした。

 戦後、住宅公団などが先頭にたって、食寝分離をすすめてきました。
食寝分離とは、寝る場所と食べる場所を分けようとする住居論でした。
それまでの日本住宅は、茶の間という何でも部屋があったせいでか、食寝は分かれていませんでした。

 また分けたくも、日本の住宅は狭くて寝室もしくは食堂を独立して設けることは、とてもできない相談でした。
狭い狭い部屋にひしめきあって住んでいる日本人の住生活は、不衝生で後進的な状態でしたから、住宅公団などお役所が率先して、食寝分離をすすめたのでした。
事実はこうでしょうか。何か変ですね。

 日本には、寝る場所と食べる場所を分けなければならない、という考え方はありませんでしたし、いまもありません、というほうが本当なのではないでしょうか。
私たちは、布団をあげたあとに食卓をだしても、一向に平気でした。
もちろん、狭い家だったから分けることが、不可能だったという見方も成立するでしょう。

 6畳と4畳半の二間しかない家に、親子7人が住んでいれば、食寝分離など考えつきもしない。
狭いから仕方なかったのだ。
狭いから何でも部屋=茶の間のようなものを、無理やりつくりだしたのだ。
広ければ日本にだって食寝分離の考え方が、発達したといわれるかも知れません。
しかし、私は話は逆であったと考えています。

 日本では、食寝分離など考えもしなかった。
布団をあげた後へ食卓をだすことは、何でもない当り前のことだと思っていたと考えています。
そして、それは何ら不衛生でもなかったとも、考えています。
もし、日本人が寝る部屋でものを食べることが悪いことだと考えていたら、そして狭いがゆえにそれが不可能だったとしたら、何か別の事態が現出していたはずです。

 食寝を分離したいと本当に望んでいれば、たとえば、台所の一隅で食事をするように、日本の住宅は発達してきたはずです。
狭い住宅事情でそうなったのではなく、布団をあげたあと、その部屋でちゃぶ台をだして、食事をすることに否定的な感覚をもたなかったから、狭い部屋で生活できたのだと考えたいのです。

 食寝分離論が果たした役割は、それなりに評価します。
しかし、食寝分離は、西欧の実情や衛生思想や住居に対する考え方と、密接にからんでいたはずです。
西欧の実情を無視して、食寝分離を唱えることは、カタカナ大好きと同じことです。
実は、食寝分離がなされた結果、狭い部屋がますます狭くしか使えない状態になってしまったし、ダイニング・キッチンを導入したため、台所の片すみでそそくさと食事をするのが当り前、と思う日本人を生み出してしまいました。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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