考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

6.天 井    その1

 天井という言葉は、天の井戸が語源だそうで、仏教用語だったようです。
火事を恐れた昔の人びとが、天に井戸があればと考えたのかも知れません。
現在では、それがスプリンクラーというかたちで実現しています。
しかし、昔は当然そんなものはなく、また、消防自動車もない時代には、本当に天に井戸が欲しかったことでしょう。
ここでは、天井の発生をふり返りながら、天井がなぜ生まれたのか、天井は本当に必要なのかということを考えようと思います。

 天井は、建物を構成する主要構造部ではありません。
柱や梁や屋根と違って、天井がなければ、家ができないわけではありません。
雨風をしのぐのが家だとしたら、天井がなくても充分に雨風はしのぐことができます。
天井はすでに平安時代あたりからみられますが、最近まで使用されていたカヤ茸の民家には、天井がありませんでした。
つまり、天井をもつ建物と、天井をもたない建物は長い間、並存してきました。

 天井の話に入る前に、軒天井という部分から話をはじめようと思います。
軒天井は、別名軒裏とかあげ裏とも呼び、屋根が桁よりも外に出たひさし状になった部分を、下から見上げたところをいいます。
最近の建物は、軒を深くだすことが少なくなってきました。

 消防法の閑係やら、施工性、経済性の問題で、軒裏は軒天井と呼ばれるほどには、繊細な仕事はなされていません。
たしかに、軒裏は火災時にもっとも弱い部分ですから、防火構造とせざるを得ないのは当然です。
しかし、かつては、外でも見えるこの軒天井は、大工の腕の見せどころでもありました。
軒天井はさまざまな技巧をこらしてつくられてきました。

 昔は、垂木と呼ばれる角材を、屋根の流れに並行に並べ、そのうえに直接板を張りならべた化粧垂木現し軒天井が多く用いられました。
飛鳥様式をもつ法隆寺は、屋根と軒天井が分離しておらず、屋根の裏側がそのまま軒天井でした。
その後、ある時期から裏板と軒天井がわかれ、屋根勾配と軒天井の勾配は別べつとなってきます。

 それまでは、屋根を支える垂木が、同時に下からもみえました。
それが軒天井となっていましたから、下からみえる垂木が重要な構造部材でした。
垂木が、屋板の瓦の重さを全部支えるのですから、垂木は太いものが必要でした。

 同時にまた軒を深くだせば、瓦の重さで軒先が下がるという宿命をかかえていました。
軒を深くだせば、外壁が雨風から守られるので、建物のためにもよいし、何といっても外観が安定して、かっこうよくなります。
しかし、深くだすと軒先が下がるという矛盾に、昔の大工たちは相当苦しんだようです。

 話はちょっと横道にそれますが、現在では建物の設計基準はまず安全性です。
美しいよりもかっこうよいよりも何よりも、まず安全であることが求められます。
その次に耐久性があるとか、機能的であるとか、経済的であるとかといった要素が求められています。
どんなに美しく使いやすい建物ができても、5人以上の人が入ると、床がぬけるというのでは、話になりません。
予測される使用状況に対して、安全に使用できることは、建築設計の無言の大前提です。

 細かくいうと、安全の定義もなかなか難しいのですが、少なくとも倒壊が予測できては安全だとはいえないでしょう。
ですから、軒を深くだしたほうがかっこうよいと思っても、構造的に無理だと思えば、仕方ない少し浅いけれど我慢しておこう、ということに今日ならなります。

 ところが、かつての人びとは、それでも軒を深くだしてしまいました。
おそらく無理を承知のうえのことと思います。
とにかく軒を深くだしました。
幸いにもすぐ倒壊には至りませんでした。
当然のことながら完成直後、いや多分工事中からでしょう、軒は下がりはじめました。
これは、あの有名な法隆寺の金堂の話です。
そういう意味では、まさに欠陥建築です。

 予測していたこととはいえ、軒が下ってきたのですから、当時の工人たちは困ったことだろうと思います。
そこでしかたなしに、下から軒の下がるのを止めるために、つっかえ棒をたてました。
現在こんなことをしたら、大問題です。
危険だ、欠陥建築だのそしりはまぬがれないでしょうし、設計者の責任問題にまで発展してしまうでしょう。
現在の法隆寺をみると、金堂の四隅に龍がからんだ束がたっています。
あの龍の束が、工人たちの苦肉の策でした。
(江戸時代の補修以降に、つっかえ棒が必要になったとの別説もある)


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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