考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

1.敷 地     その1

 「建築物とは土地に定着する工作物のうち、屋根および柱もしくは壁を有するものである」と建築基準法はいっています。
土地それ自体は自然の産物です。
ですから、土地は林という顔をしたり、田や畑という名前で呼ばれたりします。
しかし、建築の対象となると、土地と呼ばれていたのが、敷地という名に変わります。
当然これから述べるのは土地一般ではなく、家用土地つまり敷地についてです。

 住宅の敷地面積は年々狭くなっています。
6坪の敷地に5階建の自宅をたてるという離れ業を、やってみせる建築家がいたりして驚かされます。
しかし、誰でも広い敷地にゆったりと家をたてたいと念願しています。
アメリカの住宅地の写真をみると、ゆったりした緑の芝生の向こうに、小綺麗な家がポツンとたっているのは、本当に羨しくさえなります。

 人間が住むためには家が必要で、そのためには敷地が必要です。
しかし、その広さは場所によって違ってきます。
農村部に行けば、土地も安く、したがって広い敷地が手に入りますから、家もゆったりとたてられます。
こうしたところでは敷地なる概念は、希薄ではなかったかと想像しています。
なぜなら、農村では人間も自然の一部であり、その自然の一部を切りとって、もしくは自然の一部として家をたてるわけでしたから。
そんな時代には、敷地として特別に境界を区切る必要はなかったと思います。
自然と人間が一体だった、幸福な時代だったといえましょう。

 いま、私たちの生活は都市化し、かつての農村生活を想像することは困難になってきました。
都市といえば西洋です。
西洋の都市は商業地区として商品経済の中心地として、農村部と対立する関係で発達してきました。
広い村と村の境に、小さな都市ができたため、都市は農村部と利害を共有しませんでした。
都市は一つの生活体系として、都市だけで完結しょうとしたため、農村生活者とは異なった生活のスタイルや価値観をつくりだしました。
そして、都市のなかに生活する市民の発生をみました。

 「…支邦を歩けば、到る処で目につくような高い障壁をもって郊外を遮断し、門を開いて出入りさせている商業地区、そんなものは昔から日本にはなかった。然るに、都市という漢語をもって新たに訳された西洋の町場でも、やはり、本来はこの支那の方に近く、言わば、田舎と対立した城内の生活であった。…そこには市民という者が住んでいて、その心持は全然村民とは別であった…」柳田国男『都市と農村』

 日本の場合、都市は農村と対立せず、都市は農村を後背地としてもち、相互に依存する関係のまま時代を経ていました。
景気変動に伴って、都市と農村の間を移動する人びとを発生させ、農村のスタイルがそのまま都市へ持ち込まれました。
住宅についても同様でした。
それは、土地の上に自分の敷地を区画し、そのうえに家をたてる方式です。

 農村部から持ち込まれた一敷地一独立家屋という方式は、政府の持ち家制度と呼応して、都市部の住宅事情を劣悪化してしまいました。
住宅金融公庫という持ち家促進制度は、都市部農村部を問わず全国画一的にすすめられたため、地方においては住宅事情は改善されました。
しかし、都市においてはそうではありません。
土地の値段が高くなりすぎたため、敷地の細分化がすすみ、劣悪な住環境になってしまいました。

 限られた都市の土地のなかで、大勢の人間が住むとすれば、一人当たりの占有面積を減らすか、高層化していくかしか方法はありません。
前者は限界がありますから、西洋の都市では早くから住宅が高層化してきました。
便所や風呂などは、うさぎ小屋といわれる東京の住宅でも、いまやあって当たり前です。
しかし、西洋の都市は電気やガス・水道が、普及する前から住宅を高層化してきました。
ですから西洋の高層住宅には、個別トイレもありませんでした。
風呂はもちろんひょっとすると、厨房も共同だったかも知れません。
何段もの階段を上り下りする不便さに耐えて、彼らは都市で生活してきました。

 文明の発展に伴って、そうした劣悪な設備の高層住宅は減ってはきましたが、実はつい最近まで彼らはそうした住宅に住んでいました。
いやひょっとするといまでも、西洋の一部の都市生活者は、そうした高層住宅に住んでいるかも知れません。
事実、パリではいまでも5階や6階まで、エレベーターのないアパートはざらにあります。
また、いまだに風呂やシャワーのないアパートもあります。

 日本の都市その代表たる東京は、田舎が常に流入することによって、無限の拡大をつづけてきました。
日本橋や紀尾井町が都心だといっても、そこに住んでいるのは都市固有の利害のもとに発生した、江戸っ子や東京っ子ではありません。
多くは地方出身者が、都市へと移住したにすぎません。

 近代日本は、江戸という地方性をすてて、東京へと変わりました。
しかし、東京は村と村の境にできた町ではありませんでした。
そのため、東京には限界がありません。
無限に拡大する東京には、都市生活者としての基準、つまり生活のスタイルが生まれず、営々として田舎の生活感覚をもちつづけてきました。
私たちは、都市生活に何のルールも生み出さず、ただ田舎の住生活の縮小再生産をつづけてきました。

 都市と農村を区別せず、一律に私有財産制の保護を最高の徳目としてきました。
ですから、土地に対しての、都市部での私権の制限に対する共同意識が成立しませんでした。
そのため、絶対の私有財産を主張する世のなかを生み出してしまいました。

 都市生活者と時どき錯覚されますが、団地やその住民も誤解を与えてきました。
しかし、団地はここでいう都市生活者の住宅ではありません。
その場所に住む固有の理由はほとんどなく、単に同じ建物に住んでいるだけで、どうして市民意識や住民意識が語れるのでしょぅか。
そのうえ、団地は都心にたてられたのではなく、(例外もある)郊外電車でなければ、行けない場所にたてられました。
団地住民(高層長屋の意味でマンションも同じ)たちは都市市民ではなく、やがては小さくても土地付き一戸建が欲しい人たちです。

 平和な日本は、土地を財産とみる意識が強く、建物には価値をおかない感覚が支配していました。
土地は国家意思の前には無力だと考えないため、私たちは安心して土地にこだわります。
戦火にさらされて、常に国境が移動する地方では、土地は財産たりえません。
隣国の占領によって、自分の土地は自分のものではなくなります。
戦争、それも自分の土地が戦場となる時代を経験している市民は、都市のなかに田舎感覚を持ち込みませんでした。
都市にうまく住むために、敷地に対する制限をさまざまに設け、何とかして大勢の人びとをつめ込んで、今日に至っています。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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