11. 居 間 その5
家族の場としての私たちの居間には、6畳程度で充分な広さです。
私たちは、あいまいなままの人間関係をまるのまま包み、無言の思いやりをもって生活しています。
家族の誰に対しても、言葉として何かをいわなくてもわかりあえるような、同質的な関係性が家庭を支配しています。
同質性は崩れつつありますが、それに代わるものはまだありません。
親子がおのおのの個人をさらけだして、個々の人間として言葉をかわさなければならない関係は、日本の家庭にはありません。
いつも親は親としての立場が、親を演じている人間を守り、またある時は強制もして、家族に対面させています。
そこには、役割の分担による家族関係の固定化があります。
私たちのこうした属性は、家族内に言葉を失わせています。
そして、失った言葉に代わって、家族関係を保証するものは、濃密な狭い場です。
部屋の向こうとこちらに、互いに全身をさらして座るような広いリビング・ルームが、私たちに不可欠のものではありません。
私たちが必要としているのは、6畳程度のやや狭いけれど、隅ずみまで等質の空気が流れうるような部屋です。
それが畳敷きだとすれは、お尻を床につけて座り、座卓をまん中に家族が車座になる風景が現出するでしょう。
椅子を使えば、テーブルを囲んでの風景となるでしょう。
ただし、椅子式の居間であれば、6畳では少し狭いようです。
椅子という余計なものが入りこんでいますから、椅子の分だけは広くしておく必要があります。
しかし、そうはいっても、何十畳という広い居間ではけっしてなく、せいぜい8畳もあれば充分です。
家庭生活とは、いうまでもなく専門化した単一能ではありません。
家庭の厨房が、本職たちのそれょり多種類の食事を提供しているように、住宅にはさまざまな機能が複合的に要求されます。
団らん、食事、睡眠、教育、交際などなど、その機能はもう大変なものです。
社会生活では、それらが分業化して専門化するのに対して、家庭では1人か2人ですべてを負担しなければなりません。
現在すすんでいる住宅設計の手法は、何々のための部屋とか、何々のための場所といったように、個々別々に考える傾向があります。
それは、最近のデザインや工業製品が、単能品を生産する傾向が強いのに似ています。
しかし、家庭生活は、その機能を分化させるのは困難ですし、また、すべきでもありません。
ですから、何々のための部屋といった、個別目的の集合体として家を考えるのではなく、個別の集積が、質的に別の何かで満されるような部屋作り、家作りを考える必要があります。
最近の家作りが、無性格、多目的な部屋である茶の間を嫌い、茶の間がもっている個々の性格を分化させることによって、居間やら食堂やらを独立させてきました。
これは、近代科学の考え方の影響でもあろうし、西欧の家作りの考え方の直輸入でもありました。
日本の家族関係は、個別の集合ではなく、もっと何でも部屋というかたちでの家作りが表わすようなヌエ的なものでした。
それは、核家族化したといわれる現在でも、ほとんど変わっていません。
孤独に耐えて個室で暮らす西欧人型の家庭より、茶の間で和気あいあいと暮らす、許し合った家族のほうが、どれだけ私たちの肌にあうかわかりません。
これは、個人ではなく家庭が単位として、社会と向きあうことを意味し、また別の問題を生み出しはしますが、少なくとも、家庭内では寄り合った生活が、私たちの心の安まる状態です。
私たちはいつも健康であるとは限りません。
時には体調をくずして、寝込むこともあります。
そんな時、離れた個室でひとり寝ているのは、寂しくつらいものです。
私たちは弱くなった時こそ、家族の近くにいたいと望みます。
茶の間の隣りの畳の上に布団をのべ、伝わってくる家族の空気を確認しながらふせっている時、家族とはありがたいものだとは、誰しもが実感するでしょう。
家の人びとも、病人のことを気づかいながら、刺激的な音などをたてない心配りをします。
こうした配慮が、ますます家族のきずなを強めてくれます。
また、病人がいても、各人の日常生活をしないわけにはいきません。
日常の家庭生活はそのまま継続し、しかも看病せねばならない家の人たちにとって、茶の間の隣りに病人がいることは、看病という負担が最小限ですみます。
病人のための特別の体制をつくってしまうと、つづけなければならない日常生活のうえに、看病という特別な仕事が加わるため、家の人たちには大変な労働が強いられることになります。
来客のために、客間という特別な部星をつくることが、もてなしの不可欠事であるかのように錯覚しますが、これも考えなおして良いと思います。
かつての貴族や大金持ちたちのように、何十という部屋があり、大勢の女中を使っていれば、来客も客間に通されて、特別に遇されることを当然と考えたかも知れません。
客人は執事にかしずかれた食卓に、家の人と一緒についたことでしょう。
しかし、庶民の家庭事情は、こうした話とはひどくかけはなれています。
都市型住宅は、たかだか30坪ぐらいの広さしかありませんが、広さのせいだけで客間がとれなくなったのではありません。
現代では、どんなに立派な家に住んでいても、その家の人たちが魅力的でなければ、人はけっしてその家を訪問することはありません。
そのうえ、通常は自分の訪問が、相手の多大すぎる歓待をまねく時、少し申し訳けない気にすらなります。
いつも自分が接待されるだけの立場をとりつづけることは難しく、やはり、対等に互いの家に行ったり来たりがないと耐えられません。
あなたが年齢も高く、社会的地位も高いとしても、あなたの私生活の場である家庭まで来る客人は、何らかのかたちで相互関係となっているはずです。
社会的な地位とのつきあいなら、職場や夜の繁華街が、そのための場をいくらでも提供してくれます。
都市生活者が他人の家へ泊る場合、最初から豪華な客間に通されるとは考えてはいません。
自分も同様に小さな家の住人ですから。
むしろ、客が求めてきたのは、その家の人との心の交流です。
そのためには特別の客間より、いつも自分たちが使用している茶の間へ通すほうが、どれほど楽しいかわかりません。
確かに私たちが子どもだった頃、来客によって家庭の団らんが中断され、茶の間が客に占領され、子どもたちが追いだされて、寂しい思いをした記憶があります。
しかし、核家族化した現在、深夜の酔人などを除いて、来客は家中の誰にも歓迎されるのではないでしょうか。
ヌエ的な家の、さらにヌユ的な居間や茶の間の、具体的しつらえを考えていきましょう。
茶の間でも居間でもかまわないのですが、とりあえず居間という言葉を使うことにします。
和室でも洋間でもかまわない、として論をすすめてきました。
結論はその通りなのですが、和室にしたら和室風のしつらえ、洋間にしたら洋間風のしつらえがあります。
まず、古くからの茶の間でおなじみの和室仕立ての居間を検討します。
そして、次に洋間仕立てにした場合を検討していきます。
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