考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

11. 居 間     その4

 かつての茶の間が、何の家具もなしに200パーセント、300パーセントの使われ方をしていた事実を、考えなおしても良いと思います。
使用しないことがわかっている夢を買うのであれば、幼児のおねだりと同じことです。
広大な家が建築可能なら、個々別々の目的に応じて、たくさんの部屋を用意するのも良いでしょう。
西欧の家作りは専用部屋作りという傾向が強いのは事実です。
彼らは、家族構成員のために、個室を一室ずつに作っています。

 しかし、日本のそれも都市部に建築される家は、そんな余裕はないのが普通です。
狭い敷地にぎりぎり一杯建築された家は、西欧の住宅事情からみれば、まさにウサギ小屋、本当に狭いものです。
しかし、私たちの住宅は狭くても良かったのでした。
日本の住宅は昔から一貫して狭く、広い家に普通の日本人が住んだ歴史などありません。

 旧来の家作りは、狭い家をますます狭くしてしまうソファなどの家具を、持ち込む愚はけっしてしませんでした。
しかも、ソファが至極便利なものであればまだしも、下半身を露にみせてしまうがゆえに、何となく落ち着かない椅子であるとすれば、なおさら考え直すべきです。
客として他の家を訪れた時に通される部屋の、あわてて整理し直された雰囲気のなかですわるソファが、雄弁に物語っています。

 いままでソファの悪口を連ねてきましたが、茶の間や居間が、畳の部屋でなければならないと、誤解しないで下さい。
居間は、畳敷きの和室でも、洋間でもどちらでもよいのです。
ただ、下半身を隠せないような居間作りは、やめたほうが得策だといっているにすぎません。

 たとえ洋間仕立てにしても、テーブルで他人の視線から、下半身をさえぎるようなしつらえさえつくれば、充分に活用される居間となるのは当然です。
多くの建築主や設計者たちが、美しく整理された瞬間的な造形にとらわれて、人間の生活や意識までを、設計にとりこんでないのは、寂しい限りです。

 この辺で、どうやら私たちの居間といい、茶の間といい、いずれにせよ一家団らん、家族がくつろぐための部屋の設計基準がみえてきたようです。
最近では、くつろぐことが、だらしない状態にいることを意味することがあります。

 武士の子は、武士の卵としての教育を受けました。
それは、庶民の子どもたちが、祭りのみこしを楽し気にかついでいても、武士の子には許されない、といった類のものでした。
支配者の一員として、孤高に耐えることを、小さい時から要求されてきました。
プライドといえば良くきこえますが、まさに武士は食わねど高揚子を地でいく、欲望を抑える教育でした。
こうしたプライドの高い人びとは、家庭をくつろぎの場とは考えていないかも知れません。

 庶民の家族が仲良く暮らす場としての家庭は、くつろげる居間や茶の間が中心となります。
それがだらしない状態にいるのであっても、良いではありませんか。
家の外では、誰でも多少は気どっています。
家の中こそ、赤裸々な姿をさらしても、許される場でありたいものです。

 くつろげる茶の間の床仕上げ材は、畳でもカーペットでも一向にかまいません。
畳ならちゃぶ台や座卓、カーペットならテーブルに椅子です。
そして、それは食卓にもなり食後のおしゃべりの場にもなり、親しい人を迎えての歓談の場ともなります。

 畳で茶の間をつくるとすれば、6畳で充分です。
6畳では狭い、つい8畳をと考えがちですが、多人数ならともかく、5人家族ぐらいまでなら8畳では広ろすぎます。
それは、私たちが家族と体温を感じるくらいに近寄って生きているし、またそれくらいに体を近づけなければ、家族としての安心が得られないからです。

 外国に永く住んでいた人はわかっています。
とくに、国民所得の低い国へ出向いた企業の派遣員たちは、大邸宅に女中を何人も使って、生活せざるを得ません。
まるで、王様のような生活ですが、ある日何人もいた使用人たちに一斉に休みを与えて、家族だけになった時、日本人はホッとします。
本当の家族の団らんがはじまります。

 その時に使用される部屋は、けっして何十畳もある広い部屋ではなく、台所の片すみだったり、寝室のことさら狭い部屋だったりします。
これは、日本人がすでに女中を使う習慣を失ったからではありません。
私たちにとって、家族というものは無言でわかりあえ、他人の介入を拒み、身をすり寄せ合って許しあいながら生きる仲間だからです。

 家族とは言葉でいちいち意思を確認しあうような関係ではありません。
狭くて濃密な空間にいることが、家族関係を保証しています。
映画の「家族の肖像」にでてくるような、大きな食皐の向こうとこっちで、家族が食事をするなどということは、庶民の日本人には考えられないことです。

 狭い茶の間に卑下する必要はなく、狭い空間で家族の体温を間近かに感じながら、和気あいあいと生活する姿が、私たちの望しい家庭生活です。
体臭が少なく、風呂好きな清潔人種だからかも知れませんが、肌にふれるかふれないかぐらいの近くにいることが、日本の家族には必要です。

 日本の家族には、ただ日常の無意味なおしゃべりがあるだけで、家族を他者として、言葉によって関係を確認する作業は存在しません。
西欧人たちが、はっきりとした言葉を使って、ある時は残酷なまでに関係を確認している風景は、私たちには無縁です。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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