考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

6.天 井    その2

 切り妻と呼ばれるかたちの屋根を除くと、寄せ棟屋根にしても方形屋根にしても、建物の四周に軒をはりだしています。
軒先から建物の外壁までの距離は、どこでも同じだと感じますが、実は四隅の部分だけは長くなっています。
普通の部分を1とすると、隅の部分は1.4(=√2)の長さになっています。
長くなった分だけ、重量も増えて、約4割ばかり余計に力がかかっています。

 屋根の重量はまず、垂木で負担します。
普通の部分(平という)では、垂木の負担する重量は、1本につき各垂木1本の範囲だけです。
そのうえ、普通の部分では、垂木を建物の外壁より、ずっとな中まで入れますから、構造的にも楽です。
ところが、隅の部分では桁より外の垂木は、建物のなかまで入れようにも入れることができません。

 そこで、隅には建物に対して45度ででていく、太い隅木なるものを使用します。
そして、この隅木を建物のなかまで引き込んで、隅の部分の重量を負担させています。
桁より外の垂木は、隅木にくっついているだけで、重量を支える役目をしていません。
ですから、この部分の垂木は飾りものにすぎず、むしろ、自重の分だけ重量を増してさえいる存在です。

 平の部分では、重い屋根を支えようとすれば、垂木を太くしていけば可能です。
しかし、隅の部分はどうしても無理がかかってしまいました。
後年、斗枡と呼ばれる組物が、隅を支えるようになり一応の解決をみます。
しかし、法隆寺の時代には、まだ斗枡はありませんでした。

 現在なら、軒が下ってしまうのが予測できれば、軒の出を浅く、つまり少なくするのが、順当な設計者の態度でしょう。
しかし、法隆寺をたてた人びとは、下がるのを承知でたててしまいました。
こうした無謀とも思える設計方針は、構造を無視してまでも、美しい建物を作ろうとする、大工たちの美意識のなさせた技だと想像しています。

 話はだいぶ横道にそれましたが、これと相前後して、重大な発明がなされます。
いままでは、屋根と軒天井は表裏一体のもので、その間には何も入れる余地はありませんでした。
軒裏にみえる化粧垂木の上に板を張って、すぐその上に瓦をおいていました。
いわば、構造と意匠=みえがかりが同じでした。
ですから、屋根勾配と軒裏の化粧垂木の勾配は同じでした。

 

 ところが、ある時期から屋根と化粧垂木が離れて、化粧垂木の勾配がのろくなってきました。
軒先の同じ点から出発して、屋根よりものろい勾配で桁のほうへ近づいていくため、屋根と化粧垂木との問に、くさび形の空間ができます。
このくさび形の空間に、桔木(はねぎ)と呼ばれる太い部材を入れて、垂木が支えていた軒先を、かわって支えるようになりました。
この桔木の発明で、軒をどんなに深くだしても大丈夫となりました。

 この話がなぜ重要かといえば、屋根と軒とを支える構造が確立し、屋根と軒天井との縁が切れたことを意味するからです。
屋根は雨を防ぎこそすれ、遠くからみた時だけ眼に入るものです。
屋根に対して、いままで付録のように扱われていただけだった軒天井が、自由に造形できるようになりました。
つまり、ここで構造と意匠が、分離したことを意味します。
ここで、やっと軒天井が自由に、デザインできるようになりました。

 鎌倉は円覚寺の講堂をみますと、軒天井の化粧垂木が、軒裏つまり外部から桁を越えて、そのまま室内へとつづいて室内の天井になっています。
ここまでくるのには、大変な試行錯誤がありました。
構造と意匠を分けることに気付くまで、天井を張るという発想はでてこなかったのですから。

 いまでこそ、天井はあって当たり前で、構造がどうの意匠がどうの、といった話ではありません。
しかし、建物にとって天井は、本来必ずしも必要なものではありませんでした。
そのために発生が遅れ、天井だけをとって付けるという、不純とも思える着想を得るまで、天井はありませんでした。
軒天井が、みえがかりだけのためにつくられるようになると、それにつれて、室内の天井もさまざまな形が生み出されてきます。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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