考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

4. 柱と壁    その3

 木造建築の接合部を、不動の状態にするといいましたが、正確には不動ではありません。
接合部をまったく動かない状態にするのは、実は無意味ですし不可能です。
なぜなら、木は伐られてからも生きており、気侯の変化によって伸びたり縮んだりしています。
また、力がかかった時は、たわんできます。

 木という材料自身が動くものです。
ですから、接合部だけを不動にするのは不可能ですし、無意味です。
ところが、筋違は釘打によって接合してあるため、建築全体を構成する柱や梁の動きに追随しません。
筋達を入れた部分だけが、急に固くなってしまいます。

 木を釘で固定すると、釘の固さが木には吸収しきれず、短期的にはどうしても木のほうが割れたり裂けたりして負けてしまいます。
そのため、木造建築という全体が柔構造の世界へ、筋違という固い性格のものを持ち込むのは、具合が悪いと考えたのではないかと想像しています。

 現在のように、壁のなかへ斜材を入れることによって、壁を耐力壁とすることが一般化したのは関東大震災以後といわれています。
それは、建築に簡便な経済性を求める世相が、一見安くて早い施工方法を求めたこと、伝来の建築方法が複雑すぎて、外来の構造計算にのせられなかったこと等々の理由によると推測します。
現在では、木造住宅でも筋違を入れなければ、建築確認は通りませんから、昔どおりの建物はもうたてることが不可能になっています。

 木造建築は、その材料の性格上、いくらか揺れるというのが、正常の姿だったようです。
現代の最先端を行く、超高層建築と同様に、揺れることによって地震力を吸収してしまおうというのが、古い日本の建物の根本的な考え方でした。

 構造耐力を柱ですべて負担して、壁にはまったくそれを期待しなかった過去の建築は、壁に対して、いったい何を期待したのでしょう。
現在の建築にくらべると、少ないながらも、壁は確実に存在しました。
ですから、すべて無意味だと考えたのではないでしょう。
柱と柱の間に建具を入れて開口部とはせず、あえて、泥を塗って壁とした理由は、いったい何だったのでしょうか。

 壁の穴というスパゲティ屋さんがありますが、壁の穴という名前はとてもヨーロッパ的な名前です。
けっしてわれわれ柱人種に思いつく名前ではありません。
壁の穴といってもそれは、壁のシミという程度のものです。
何かでひっかいて壁に小さなくぼみができた。
それが、何世代か経るうちにいつもそこにあるという壁の穴です。

 日本の家屋でいえば、柱のキズか柱の節といったところでしょうか。
石造の建物は壁が厚く、たとえ壁に穴があいても、その穴から向こうが見えることはありえません。
ところが、私たちが壁の穴という時、向こう側がみえる、のぞけるようなイメージをもつのではないでしょうか。

 日本の壁は薄いので、その可能性があります。
同じ壁という言葉に対しても、随分と異なったイメージが抱かれるものです。
ですから、壁という単語が使用されても、壁の本質ともいうべき性質は、はなはだしく違ってきます。
ここでは、もちろん外国の壁ではなく、日本の壁について考えています。

 壁になっている部分をとりはらって、床から天井まで透明の全面ガラスにすると考えてみて下さい。
このガラスがハメ殺しで開閉できない場合、私たちはこれを壁と感じるか、窓と感じるか、どちらでしょう。
開閉できないから、窓だとはいえません。
しかし、壁だともいいきれないような気がします。
透明ガラスで仕切ってあり、雨風は入りませんが、向こう側がまる見えでは、壁といいきるにはどうもスッキリしません。
ガラスがあるのだから、雨風どころか、もちろん人間も通れません。

 ところで、高所恐怖症という人は、ただ高い場所ならやみくもに恐しいというのではありません。
本当は高い所にいても、本人がそれを知らなければ平気です。
ところが、一度自分が高い所にいることを知ってしまうと、もう怖くて仕方ありません。
下を見なければ良いといっても駄目です。
見なくても怖いのです。
ところが、腰のあたりまで不透明な(コンクリート製などの頑丈なものがより好ましい)手すりや擁壁があると、恐怖心が少なくなります。

 これは、高所恐怖症が肉体の病いではなく心持ち、言い換えると、精神の病いだからです。
それゆえに、事実としては自分が高いところにいても、気がつかなければ、つまり、見えさえしなければ、恐怖心がわきません。
ところが、この手すりや擁壁がガラスでできていると、残念ながらもう怖いのです。

 高所恐怖症の例は、私たちに壁が何かを教えてくれます。
壁は構造耐力を負担しなくても、一向に壁としての属性はそこなわれませんが、向こう側を透けて見せる場合は、壁はどうも壁たりえないようです。
高所恐怖症の人でも、どんな高いビルのうえにいても、壁で囲こまれてさえいれば怖くないはずです。
ですから、私たちの壁は、けっして頭丈ではないけれど、視線をさえぎる役割をもっていたと匠研究室は考えます。

 人生の壁にぶつかったという表現がありますが、これは打破不可能な障害にぶつかったという意味にとるのは誤りだろうと思います。
ぶち破ることが不可能な障害は、実は壁ではありません。
日本の壁は、せいぜい泥で塗られた薄い膜で、その厚さたるや柱よりもずっと薄いのです。
人力で破ることが不可能な障害を表わすなら、岩にぶつかったとか、山にぶつかったなどという表現のほうが、ずっと現実味があります。

 壁にぶつかるという表現が、構造を負担しない壁をわざわざ選んだのは、壁が頑強さをもってないことを示しています。
壁は向こう側が見えない、視線を遮断する働きをするものとして、考えられていたことを意味します。
それゆえ、人生の壁にぶつかったという表現は、人生の向こう側、明日つまり生きる方針を、見失ったという意味でした。
向こう側が見えないことによる不安、これが壁にぶつかるという表現の真意です。
ですから、ある指針を与えられると、急に人生に希望がもて、壁は雲散霧消する次第になります。

 日本の建築のなかで、壁は構造耐力を負担してきませんでしたが、視線を遮るという役目をもっていました。
それゆえに、私たちは透明ガラスの壁にはなじみにくいわけです。
では、人間の五感のうち味、触、臭は、壁をとおりぬけられませんが、聴はどうでしょう。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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