4. 柱と壁 その2
私たちの先祖は、木に対する絶大な信頼と、釘の入手難や釘の施工性の悪さ(現在の釘打ちと違って、昔の和釘を打つのは大仕事であった)等々さまざまな理由から、釘を余り使用しませんでした。
現在なら、釘で固定してしまうところも、何とか木と木だけで繋ごうとしました。
長ホゾ(穴)、鼻栓という仕事は、現在の一般木造建築では手間がかかりますので、もはや使用されていません。
現在は釘打ちすることによって、斜材つまり筋違をとりつけて地震カや風圧カに抗しようとしています。
柱が中心だといっても、私たちの歴史のなかで、壁が耐力壁となっている例がないわけではありません。
たとえば、神社における板壁です。
これは柱をたてる時に、壁として板を一緒に組み込んでしまう工法です。
ですから釘は使用しません。
両側を柱と柱で、上下は桁と土台で固定された板壁は立派な耐力壁です。
この板壁は、板自身がちょうど筋達のように働き、面内剛性が発生するために、ツーバイフォーの壁のように耐力壁の働きをします。
しかし、神社や神殿のような高価な建物では、板壁も可能だったかも知れませんが、幅広の板材の生産が困難だった昔には、けっして一般的な方法ではありませんでした。
校倉造も耐力壁をもった建物の一種です。
しかし、校倉造は倉庫に多用されているように、人が住むための建物ではありません。
そのうえ、構造的に耐力壁の必要から、校倉造が生み出されたのではなく、木材の製材技術から、ああしたかたちが生じたと思われます。
なぜなら、校倉造の壁といっても、やはり細長い木材を積み上げており、部材問の接合部に耐力を期待しているからです。
板壁造は柱をもっていますが、校倉造は柱をもっていません。
むしろ校倉造は、結果的に壁が構造耐力を負担するようになった、と考えるほうが自然です。
私たちの先祖は、柱と桁や土台という水平材だけで建物を構築するよりも、補助材を使って、カを分けて負担したはうが合理的だとは考えたようです。
そして、現在でこそ単なる壁下地材となり下ってしまった貫(ぬき)という水平材を生み出しました。
最初は長押(なげし=現在は鴨居のところに、つける内法(うちのり)長押しか残っていないが、かつては地長押、腰長押、天井長押などとあった)として発生したのかも知れませんが、貫は立派な構造材でした。
貫は柱を貰通して柱と柱を結びます(右図を参照して下さい)。
まず、柱に穴を貰通させて、その穴より1.5センチばかり背の低い板材をとおします。
これが貫と呼ばれる部材です。
貫は壁の中心になり、泥で塗りこんでしまうので、外からはみえません。
柱と貫の1.5センチすき間には、楔(くさび)を打ち込んで固定します。
この楔が、柱と貫の接合部を不動の状態にします。
こうした貫を、床下、鴨居上、天井下あたりにとおして、耐力を分担させました。
貫も水平材でした。
日本の木造建築は、意固地なくらい斜材を嫌いつづけてきました。
ほとんど垂直部材と水平部材だけで、建物を構成しました。
斜めに使用された部材は、新薬師寺の合掌とか、寺院の尾垂木程度で、その使用例は本当に限られています。
垂直の柱と水平の材料だけで建築を支えるのは、清水寺の舞台とか、室生寺の床下とか、一般建築の屋根裏などで現在もみられるとおりです。
斜めに材料を接合することは、木の繊維を切断する量が増えることを意味し、木材の強度がおちることも、斜材を嫌った理由の一つかも知れません。
かつての大工たちも、筋違の原理は当然知っていたと思います。
けれども、あえて避けて使用しなかったとしか思えないほど、頑固に使用していません。
その理由は筋違の性格に由来しているように思います。
長方形の壁面がカを受けて平行四辺形に変形する時、圧縮される筋達(=対角線)が生じます。
これは対角線の長さが短くなることを意味しています。
するとこの面の外へ、つまり手前か向こう側へと筋違がたわんで、逃げてしまうことになります。
筋違は面の外へは固定されてはいませんから、壁の中央に対角線状に亀裂が入ってしまいます。
(この現物は新薬師寺で、濃美地震の時に体験しています。後世の修理で筋違を入れたら壁がこわれた、何という皮肉)。
一度入った亀裂はもうなおりません。
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