考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

3.光と闇     その2

 私たちの祖父や祖母は、ランプの火屋を磨かされた経験を誰でももっているはずです。
今日の明るさになれた眼からは、なかなか想像しにくいことですが、夜に明るさを求めることは非常に困難なことでした。
屋外が暗ければ、室内も夜は暗いのが当たり前でした。
人間有史をざっと1万年とすると、明るい夜の室内を知っているのは200分の一つまり最近の50年です。
しかし、私たちは夜の室内でも闇を経験できず、少し明るい闇しか実感できなくなっています。

 200分の199の長き年月によって形成された人間の感覚は、簡単に変えることができるでしょうか。
もちろん、電灯のない時代のほうがよかった、なんてことを言っているのではありません。
電灯のあるほうが、ないよりずっとよいに決まっています。
しかし、室の隅ずみまで煌々と照らす必要があるのでしょうか。
とくに、蛍光灯が室内に持ち込まれて以降、非常に明るくなりました。
室の隅でも、本が読めるくらい明るい場合すらあります。

 蛍光灯があまりにも優秀な照明器具であるため、最近また蛍光灯に対する拒否反応がでています。
あの光の色が嫌いだという話をよくききます。
しかし、本当にそうでしょうか。白熱灯よりも蛍光灯のはうがずっと、昼の光の色に近いのです。
誰でも夜の闇より、昼の光のほうが好ましいに決まっています。

 昼の光に近いということが、白熱灯を押しのけて、蛍光灯がこんなに大量に普及した原因だったはずです。
光の色をいうなら、昼の太陽光線を嫌いだというのでしょうか。
多分違うと思います。
自然の人工化が、歴史の道だったとすれば、白熱灯より蛍光灯のほうがずっと進んだ照明器具です。

 蛍光灯が嫌われるのは、おそらく影のなさだろうと思います。
天井からつり下げる形式の多い日本の照明器具は、直接的に光を投げかけます。
そして、蛍光灯は光源が広いため、平均的に光を発します。
部屋全体が均一に明るくなってしまい、夜の照明としては、平穏を乱すというのが嫌われる理由ではないでしょうか。
昼の光に近いから、蛍光灯にとびついてみたけれど、光の演出がないのがわかってきました。
長年かかって、夜を飼いならしてきたのが、蛍光灯には夜の演出がない。
それが新しい光にとまどっている現状です。

 屋外でも同様です。キャンプ・ファイヤーや夜店、薪能のように暗いなかに明るい点があるのが、夜の自然です。
昼の陽光を好ましいとする一方、避けることのできない夜をも、何とか快適にすごす方法を長年に渡って模索してきました。

 たまたま手に入れた人工照明=電灯の偉力についのせられて、私たちは自然のリズムを無視して、照明計画をすすめてしまいました。
一時は多くの人が、影のない夜に何の不自然さも感じませんでした。
しかし、少し時間がたってみると、蛍光灯の不自然さに不快を感じる人がでてきました。

 アメリカ合衆国はラスベガスの街は、逆の意味で興味深い例です。
ラスベガスの街は、夜になると、それはそれは美しい光の渦につつまれます。
目がくらむほどです。
ラスベガスは、虚構のうえに人工の極をきわめて花ひらく場所です。
そうした街が、せい一杯の光の渦を演出してみせることは、充分に理解できるところです。
しかし、昼のラスベガスは実に殺伐としています。
昼も夜もともに不自然ではありますが、あそこまでやられると、かえって納得させられてしまいます。

 私たちの室内はラスベガスとは違います。
ラスベガスは一時の遊山に行く場所ですから、虚構の極でもかまいません。
虚構であればあるほど、徒花の美しさがあります。
しかし、日常の室内は、均一に明るい夜を不自然で疲れると感じさせます。

 影のない物体はありません。
光ではなく、影が主を生かすと言えます。
華ばなしいスポットライトをあびて、舞台の主役が何度もカーテンコールに応えようとも、主役を主役たらしめているのは、そのまわりにある影つまり脇役たちです。
時どき錯覚しがちですが、光の演出は、光そのものではなく影におっています。

 話は闇からはじまります。
真っ暗のなかで、自分の興味を感じる対象のみが、みえるように工夫することが第一歩です。
室全体を明るくすることではありません。
人の興味の対象はまず自分の目線の先でしょう。
すると室内ではまず手元になるでしょうから、行灯が必要になります。

 室内にもう一人いれば相手の顔でしょう。
相手の表情を知りたいはずですから、顔の高さに何か明るさがあればよいわけです。
この時の光は強すぎてはいけません。呟しいだけです。
闇のなかでは、弱い光が必要な個所だけを、照らせば用はたります。

 この状態を想像してみて下さい。室の隅にはやっと光が届いている程度でしょう。
こうした状態が過去何百年もつづいてきました。
夜の照明は顔の高さに、しかも呟しくない程度のもの、これです。
絶対零としての闇を忘れてしまうと、光は私たちの手からするりと逃げてしまいます。

 谷崎潤一郎氏の『陰影礼讃』によるまでもなく、暗い室内でも私たちの先祖は、美しく心地良くみせるスベを求めてうごめいていました。
たとえば、黄金の仏像、金銀の入った織物、蒔絵、また金襴の袈裟などを、その中へおいたと想像して下さい。

 少ない光のなかで、金銀は闇にとけこむ下地と頼りない光にゆるく反射して、何ともいえない美しさをつくるでしょう。
白日のもとでは、ひ弱でみすぼらしくみえるものが、夜の光のなかでは己を充分に美しくみせてくれます。
夜の室内では、人間がもっとも興味をもち、表現しようとしたものは、夜の世界でだけ美しく、光と影に支えられて花ひらきます。

 長い間に、私たちの先祖は室内で美しくみせる術をあみだし、それを伝えてきました。
しかし、最近登場した人工照明は、たかだか50年の伝統しかもっていないために、そうした豊かさをもつにまで至っていないと言うべきでしょうか。

 もう一度ヨーロッパに思いを馳せてみますと、おそらく、彼らも暗い部屋で生活してきたはずです。
そのなかで、光を演出する術をつみ重ねてきたのだと思います。
たとえば、貴族たちの愛用した夜会服は、男も女も金ピカの装飾にあふれていました。
そうした昔の夜会服を現在の博物館でみる限り、何と古めかしく貧弱だとは思いませんか。
いまは工業技術も発達して、もっともっと豪華な衣装が作られていると思いませんか。

 しかし、ああした衣装は古い昔のものだからみすばらしいのではなく、本来使用されるべき場所にないからみすぼらしくみえるのです。
夜会服は白い皮膚の人間が身につけて、ろうそくや松明のゆれ動く光のなかへ表れる時、もっとも美しく本来の姿がうかびあがります。

 白い肌の女が、背中を大きくあけたイブニソグドレスで現われる時、その背中が近目ではたとえシミだらけであっても、遠目にはまさに決まった姿として美しく感じられます。
それをエスコートする白い肌の男の、黒のタキシードも同様に美しく、夜の服装の歴史を彼らはもっていたことに気づきます。
サテンやベルベットといった布地も、金銀に替って、やはり夜が生み出したものでしょう。
また、貴金属や宝石も、夜の光のなかでは、単に財産としてだけではない、本当の装飾品として生きています。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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