考える家  : 気配の住宅論

目 次

 1.敷 地  2. 玄 関  3.光と闇  4. 柱と壁  5.建 具
 6.天 井  7.ト イ レ  8.浴 室  9. 厨 房 10 畳と床
11.居 間 12.個 室 13.設 備 14.外 観 15.あとがき

7.ト イ レ    その4

 農耕民族の歴史が、断たれるとはちょっとおおげさですが、しゃがむ人びとは、明らかに洋式便器のシステムをつくりあげた人びととは、異なった文化をつくっていました。
自然からの産物である米や野菜を口に入れ、消化し排泄する。
しゃがむ人は、その排泄物を無用のものとみるのではなく、有用のものとして再び自然へ返してやる、というリサイクルの環をつくりあげていました。

 腰かける人びとも、最初はおそらくしゃがんでいたのでしょう。
現在でも、腰かけ便器を使用できる人は、世界の人口の半分にも達しないでしょう。
メキシコでも、ブラジルでも、タイでも、地方へ行けは、トイレと呼べるような立派な施設はなく、ただ何とはない場所が排泄の場所です。
当然、しゃがむスタイルです。

 この論が、しばしば都市にこだわるのは、西洋型の都市が近代になって生み出したものが多大で、私たちを無意識のうちに洗脳していると思うからです。
世界中にしゃがむ人しかいなかった時代に、個人所有の道具をたずさえた腰かける人が、生まれてきたのも都市においてです。

 もちろん、それ以前にしゃがむ人びとが、すべて人糞を肥料として土地へ戻していたのではありません。
現代のインドの人たちもしゃがみますが、彼等は排泄の場所を特定しません。
土地と人間とが、固く結びついた農耕民族だけが、排泄の空間を要求したのかも知れません。
けれども、都市が生み出した他の数かずのものと同様に、腰かけ型便器もやはり都市の生んだ偉大な文明の1つです。

 腰かける人は、排泄の道具を個人所有し、しゃがむ人は排泄の空間を個人占有すると考えると、さまざまのことが納得いきます。
アメリカ合衆国では、1つの寝室に1つのバスルームがついているのを原則とし、寝室が3つあればバスルームも3つというのも、寝室という個室が個人に属するものだからでしょう。

 しゃがむ人が排泄の空間を1人で占有したがるのに対し、腰かける人は排泄の用具さえ使用できれば、排泄時の姿を他人にみられても、それほどの羞恥心がわかないのも納得がいきます。
ですから、風呂、トイレ、洗面所が一体となったバスルームでも、風呂とトイレの同時使用は心理的に可能なことが理解できます。

 腰かける人びとが、パーティなどで他人の家を訪問した時、気のきいたホステスによって、トイレのドアを開けて、トイレの使用許可を暗示的に示されていても、通常は他人の家のトイレは借りません。
これも、トイレが基本的には個人所有だからでしょう。

 そう考えると、誰が腰かけたかわからない洋式便器に、腰をおろすのをためらいたくなる気持ちもわかります。
親しい人間だけに、便器の使用を認めるのも、充分に理解できるところです。
また、人間の皮膚でも柔かい部分を、あの冷たい便器にピチャリとつけうるのも、個人所有だから耐えられるといえます。

 日本の洋式便器によくあるように、便座に布のカバーをまいても事情は変わらず、ある意味では不潔感がますだけともいえます。
これに対して、しゃがむ人の国である日本の和式トイレが、ほぼその逆である事情も理解できるところです。

 この論は、建築を語るはずのつもりで出発しましたが、モノのとしての建築にはなかなか触れえません。
家をたてようとしているあなたには、もっと直接的にあれが良くて、これが悪い式の話のほうが良いかも知れません。
しかし、いままでの建築家たちの多くが、そうした小手先の解答しか出してこなかったことが、私たちの住生活をこれほどの混乱と、無秩序が支配する状態にさせてしまった一因だと考えています。

 建築は素材やかたちや色であり、最終的にはものとして実現せざるを得ないものです。
しかし、それはあくまで結果であり、本来的に追求されてしかるべきは、建築を支える人間の生き方だと考えています。
建築を実現すべき使命をおった建築設計事務所が、モノとしての建築よりも、生き方といった無形の何かのはうが、より大切なのだと主張することは、一見自縄自縛かも知れません。
豊かな住空間をつくるためには、この無形の何かをとり込んでいく以外に、道はないと匠研究室は信じています。


「タクミ ホームズ」も参照下さい

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