続・遡及的想像力−動画ポルノグラフィをめぐって
2004.8.15

目  次 続・遡及的想像力
1.はじめに 1.静止画ポルノから動画ポルノへ
2.差別と解放の意味するもの 2.動画ポルノの表現する性交
3.ポルノグラフィの定義 3.男女の性的快感の違い
4.フェミニズムとポルノグラフィ 4.継続的と瞬間的な
5.和製フェミニズムとポルノグラフィ 5.男性の肉体の裏切り
6.女性の性的積極性と自由 6.男性は性的快感を観念でおぎなう
7.ポルノグラフィの解放 7.充実した性交を

3.男女の性的快感の違い

 女性が性交で快感に打ち震えるのは、男性を喜ばせるための単なる演技にすぎない、という声がある。
もちろん女性が何時でも、絶頂的な快感に達することはないだろう。
しかし、男性の貧弱な性的快感ですら、いつも同じとは限らない。
充実した性交では、女性にもやはり自発的な快感が伴うとして、論を進めて良いだろう。

 性交場面を描く動画ポルノは、性交の始まりから終わりまでを描くが、性器が結合してからが描写の中心となる。
山村氏は、性交時の運動はピストンのように行うのではなく、「おしおし」「もみもみ」が良いのだ、という。
どちらが良いのかは各人の好みに任せるとして、運動中に男女がどのように感じているかには、男女にたいへんな違いがあるようだ。

 永井荷風が書いたと伝えられる「四畳半襖の下張」には、次のような記述がある。

 
(快感が生じはじめ)忽ちよがりの一声、思はず高く発すると心付いてか、襦袢の袖にて顔を蔽ふ。此方はますます泰然自若として徐に女の伊達巻解きすて、緋縮緬の腰巻引きはだけて、乳房より下腹までむっちりとして雪のやうなる裸身、上なる電燈くまなく照すを打眺めつゝ、おのれも浴衣かいやりはだかとなり、女が両足腿よりすくひ上ぐるやうにして此方へすこし反身になって抜挿見ながら行ふ面白さ、何とも言へたものにあらず。

 この場面は、すでに性器が結合されて運動が始まっている。
女性はいくらか兆してきており、一度すでによがり声を上げている。
にもかかわらず、男性のほうには快感がほとんど到来していない。
前述のとおり、結合自体は男性に大きな快感をもたらさないから、このときの男性は平常心である。
だから、女性の変化を観察する余裕がある。文章は次のように続いていく。

 
どうやら此方もよくなって来さうなれば、これではならぬと上になって、浅く腰をつかひ、只管親指のみ働すほどに、女は身を顫はせ、夢中に下から持上げて、襦袢の袖かみしめ、声を呑んで泣き入る風情。肌身と肌身とはぴったり合って、女の乳房わが胸にむず痒く、開中は既に火の如くなればどうにも我慢できねど、こゝもう一としきり辛棒すれば女よがり死するも知れずと思ふにぞ、息を殺し、片唾を呑みつゝ心を他に転じて、今はの際にもう一倍よいが上にもよがらせ、おのれも静に往生せんと(後略)

 女性の方はすでに快感の極みに達しているのに、男性の方は射精が近くなってきた自覚があるだけである。
それどころか、男性のほうは他のことを考えて射精を引き延ばし、性交への集中を拒んでいる。
男性は、快感の頂点に上ることを拒否している。
ここでは女性のみが感じており、男性はほとんど感じていない。

 男性が上になっている体位だから、女性だけが感じているのではない。
また、男性の書き手だからというわけでもない。
斎藤綾子氏は「子猫の舌」で、次のように書く。

 
パックリと開いた膣の中を弄ると、喘ぐ私の下腹に杭を打ち込む要領で、男は股間にペニスをネジ込んだ。膣はみるみるうちに肉を飲み込む。亀頭で子宮口に円を描きながら、男は私の尻をゆすり立てる。
 そうやってこすり合っているうちに、痺れて硬直していた筋肉が次第に弛緩し始める。ビクンビクン膣が痙攣したとたん、脳ミソが炸裂したみたいに恍惚が穴という穴から吹き上がった。


 女性側からのみの記述だが、明らかに男性をおきざりにして、女性が快感に達している。
女性にペニスをネジ込んだ男性は、すでに女性の意識の中にはない。
男性器が女性器へ、つまり女性の体内に入っているにもかかわらず、男性の存在にかんしての意識が、女性には消えている。
女性は自分の快感にのみ、神経が集中している。

 「四畳半襖の下張」では、快感にたゆとう女性を、眺める男性の目があった。
男性が女性に快感を与えようと意識していた。
しかし、斎藤綾子氏には、ペニスの持ち主への目はない。
快感が訪れると意識は自己だけに集中し、女性の快感のみが自意識として残る。
また彼女にあっては、自分が快感を得るか否かが問題で、相手の男性に快感を与えるという方向性はない。

 性交における感じ方には、はっきりと男女差がある。
こうした違いは、静止画では伝わってこなかった。
動画ポルノになってから、男女の感じ方の違いが、如実に表現されるようになった。
その違いを考察してみよう、というのが本論の主題である。


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