遡及的想像力−ポルノグラフィをめぐって
2002.9.10

目  次 続・遡及的想像力
1.はじめに 1.静止画ポルノから動画ポルノへ
2.差別と解放の意味するもの 2.動画ポルノの表現する性交
3.ポルノグラフィの定義 3.男女の性的快感の違い
4.フェミニズムとポルノグラフィ 4.継続的と瞬間的な
5.和製フェミニズムとポルノグラフィ 5.男性の肉体の裏切り
6.女性の性的積極性と自由 6.男性は性的快感を観念でおぎなう
7.ポルノグラフィの解放 7.充実した性交を

3.ポルノグラフィの定義

 アメリカにはカミール・パーリアのように、ポルノも売春も妊娠中絶も無条件にすべてOKだ、という女性フェミニストがいる。
しかし、わが国の女性フェミニストたちは、ポルノとは女性を差別し、女性を侮蔑するものであると見なす。
一種の性暴力であるといって、ポルノを否定する。
本論はカミール・パーリアと同じ立場に立つものであり、ポルノは決して女性差別の象徴ではないと考える。
むしろポルノは性を謳歌するものであり、その流通は自由に認めるべきだと思う。

 前記のごとく、本論は男女差別の撲滅では、わが国のフェミニストたちと意見を同じくしながら、ポルノにたいする姿勢では意見を異にする。
そこで本論では、人間解放の思想にたつ以上、ポルノを認める立場が正当であることを主張したい。
わが国のフェミニストたちのように、女性の解放を訴えながら、ポルノに反対するのは論理矛盾であることを論証したい。

 ポルノを論じるにあたっては、ポルノとは何であるかを決めなければ、話が始まらない。
性にかんすることが、すべてポルノではなく、ある種の性関係を表現したものがポルノと呼ばれるらしい。
2人の女性が全裸で向かい合っている左の写真は、「異形の恋」という映画のポスターだが、これはポルノだろうか。

 左の写真は女性2人だったが、右上の写真は男女が抱き合っている。
性器は見えないが、性行為を連想させるから、ポルノなのだろうか。
同じポーズでも、水着を付けていれば、ポルノではないのだろうか。
右下の写真は女性の上半身だけであるが、性交中の女性の表情である。
これはポルノなのだろうか。

 フェミニスト的な立場をとる瀬地山角氏によれば、
ポルノとは「性欲を起こすことを主たる目的として制作され、性欲の充足のために消費される性に関する写真、絵、映像、文章」だと定義される。
性にかんする描写であっても、性欲を起こすことが目的でなければ、ポルノにはならないらしい。
先を読んでみよう。
瀬地山氏は、アメリカでのポルノに対する立場を、つぎの4つに分類する。(「よりよい性の商品化へむけて」から引用する。=以降の要約は本論の筆者による)

 
@保守的あるいは宗教的な立場から、性の氾濫を許すべきではないという意味で、ポルノに反対する立場=保守派
 Aすべてのポルノが、反女性的とするポルノ否定の立場=絶対派
 B女性に対して暴力的なポルノにだけ反対する立場=条件派
 Cポルノへの法規制に反対する立場=賛成派


 アメリカでのポルノ論争は、女性運動の興隆と平行して激しくたたかわれてきた。
とりわけ、性的な世界を抑圧したがるキリスト教が、アメリカ社会に大きくしかも深く根付いているため、性をめぐってはポルノ解放派と、反対するキリスト教との対立が激しかった。
ここで確認したいのは、キリスト教関係者は、性を生殖と快楽に分け、生殖のみを認め快楽のための性交は否定することである。

 キリスト教にあっては、種を絶やさないための性交だけが肯定されるから、性交はいわば種にたいする義務であり、人間が生きる上での権利ではない。
義務の遂行としての性交は、手早くすませることになるし、享楽的な姿勢は許されない。
回数も少なければ少ないほど良い。
当然のこととして、性交は秘められたものとなり、寝室から表に出すことは否定される。
そのため、性を描写するポルノも当然に否定の対象である。
キリスト教なかでもカソリックは、完璧に@の立場である。

 わが国にあっては、キリスト教もフェミニズムも外来思想であるために、ともに進歩的なものと勘違いしがちである。
しかし、西欧における近代は、因習的なキリスト教との戦いだと言ってもよく、カソリックというキリスト教にプロテストしたのが近代の始まりだった。
だからキリスト教は近代とは相容れないものだ。
キリスト教がいかに女性を抑圧し、女性解放の障害になり、保守的な抵抗勢力として活動しているかは、わが国からは想像がつきにくい。

 ポルノとは少し違うかも知れないが、キリスト教は婚外での出産を認めなし、妊娠中絶に反対している。
そのうえ、避妊した性交は快楽のためにだけするものだから、当然のこととして快楽の補助となる避妊も認めない。
キリスト教はことごとく女性の解放に反対している、といっても過言ではない。
キリスト教とりわけカソリックはフェミニズムとも、本論とも並び立つことはできないと考える。

 近代が獲得した基本的人権である表現の自由を否定してまで、性に関する表現を隠蔽しようとするのが保守派である。
宗教的な立場を除けば、@の保守派の立場は論じるまでもないだろうが、わが国の保守派の言動をにらみながら、簡単にふれておきたい。

 社会的な性風俗がみだれるとか、子供への悪い影響があるといったあたりを、保守派は反対の理由にする。
この立場は、悪書追放運動に似ている。
保守派は、ポルノと自分との関わりを問題にするのではない。
想像上の被害者を想定し、その被害者を思いやった結果、ポルノに反対だという論を立てる。
保守派は、たとえば右下の写真にどんな判断をするのだろうか。

 最近では、女性の裸体写真は解禁されつつあり、陰毛が見えても許されることが多い。
女性の場合は、右のようなポーズでは性器が見えないが、男性の場合は性器が見える。
したがって、右のような男性のポーズは、公開を許されないことが多く、ことに男性器が勃起していたらポルノと断定される。

 保守派の言動は、自分たち大人は良識があるのでポルノを楽しむことができるが、ポルノによって性欲を異常に昂進させ、自分を失ってしまう人がいるから、ポルノを公にするのには反対だ、といったら良いだろうか。

 この発想は、人間を二種類に分けるものであり、典型的な二重規範の適用である。
二重規範は、誰が人間を区別するのかが不明で、ポルノを楽しめる人間と、そうではない人間を分けるのは、恣意に流れざるを得ない。

 人間を区別する発想は差別そのものであり、ポルノにたいする二重規範は論理が破綻している。
もし、保守派が二重規範をはずしても、ポルノに反対するとすれば、キリスト教のように自らも性交を生殖のためだけに限定し、性の快楽を否定しなければ不可能である。
自分はポルノを見るが、他人には禁止というのでは、筋が通らない。

 キリスト教の例でも述べたように、性の快楽を否定すると、性は本来あってはならないものとなり、必然的に隠すべきものであり、寝室に閉じこめる結果になる。
性交の快楽を否定すると、性交には快楽がつきものだから、原則的には性交ができない。
しかし、種の断絶は困るので、受胎だけを求め、一度の性交で妊娠することが理想になる。そして、妊娠するつもりのない時は、性交してはいけないことになる。

 快楽が目的なら肉体の接触は不可避だが、妊娠が目的の性交は、肉体の接触を必ずしも要求しない。
快楽が付随してしまう肉体の接触がなくても、妊娠可能ならそのほうが望ましい。
つまり、キリスト教にとっては、性交より人工授精のほうが、正しい種の保存方法になる。
性欲を昂進させず快楽もないのだから、人工授精の手術シーンを描いても誰もそれをポルノとはいわないだろう。

 性の快楽を否定すれば、享楽的な性交を描くのは、自動的に否定の対象になる。
しかし、人間の生きる喜びを肯定する立場からは、性は人間性の基本的なものであり、性の快楽は謳歌しても良いと考える。
性の快楽は、人間が生まれながらに備わったものであり、それを寝室に隠しておくべきではない。
性はよりおおらかに、自由に楽しむべきものであり、肯定されるべきである。

 フェミニズムも性の快楽を肯定する以上、保守派的な理由でポルノに反対することはない。
わが国のフェミニズムは一貫して、ポルノに反対してきた。
しかし、フェミニズムは保守の思想ではないだろうから、@の保守派の立場は取らないだろう。
そのため本論では、これ以上@の立場を論じることはせず、@の立場は否定し尽くしたものとする。

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