|
||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
2.差別と解放の意味するもの 現代社会には男女差別が存在する。 それは打破されなければならない、とフェミニズムは主張した。] 本論も社会的な男女差別は打破されるべきだと考える。 この点については、フェミニズムとまったく意見を同じくする。 男女のあいだに、第一の性、第二の性といった上下の違いはない。 男女に社会的な上下関係を認めることは差別である。 差別は人間を抑圧する。 差別は人間を卑屈にする。 差別をなくすことは、人間を解放することである。 だから、本論は差別の撲滅は人間の解放につながると考えている。 フェミニズムは解放の思想である。 本論も解放の思想でありたいと思う。 人間の解放とは性の開放でもあると考えるので、社会的な男女差別の撲滅を主張すると同時に、性の自己決定権を主張する。 フェミニズムは性が寝室の秘め事ではなく、社会空間のなかで自由に流通すべきだと言ってきた。 本論も性の解放を支持する立場である。 性別による差別とは、男性と女性が相互補完関係にあり、両性の立場に互換性がないことだと考える。 生理的な男女の違いが社会的な違いにまで演繹されて、性という本人の努力や心構えではどうにもならない理由によって、社会的な役割が分担させられ、そして、女性が男性の立場や仕事をしたいといったときに、女性には禁止されていたり、不可能である状態が女性差別である。 性別は天与のものであり、個人では選択できない。 だから人間は、まず個人として生きる。 個人的にはどんなに性的な魅力を振りまいてもかまわないが、性別を理由に社会的な対応が異なることは許されない。 男女は個人的には各々異なっているが、社会的には同じ扱いを受け得るのが、差別のない状態である。 性別による差別は、女性の人間性だけを歪めるのではない。 社会的に等価な男女を、別扱いすることによって、女性はもちろん男性にも男女別の像を結ばせる。 ここでは人間たらんというよりも、男性らしくあれとか、男性は女性とは違うといった、異なった意識が形成される。 自己は他者を鏡として認識するから、他者たる異性にバイアスがかかれば、認識主体の意識も歪んでくる。 それゆえ、社会的に男女が相互補完的であることは、それ自体ですでに差別である。 次に解放の意味を考えてみる。 人間が解放されると、ただちに豊かな生活や自由な夢が叶えられると思いがちだが、人間の解放がもたらすものは、必ずしも経済的な豊かさを意味しない。 解放されていない人間の典型は奴隷だが、奴隷がすべて経済的に貧しいかというと、決してそんなことはない。 ギリシャやローマの時代、人口の半分は奴隷だったといわれるが、すべての奴隷が貧しかったわけではない。 奴隷のなかには自由な市民より、裕福な生活をする者もいた。 とりわけローマ時代になると、教養の高いギリシャ人奴隷は、ローマ人の家庭教師を務めうるので、高い金額で売買された。 高い金額で購入した奴隷が、病気でもしたら大変だから、貧しい市民よりはるかに豊かな生活が提供された。 しかし、奴隷は解放された人間ではない。 だから、どんなに豊かな生活を享受しても、自分の生活を自由に決めることはできなかった。 つまり自己決定権がなかったのである。 奴隷がいない現代でも、事情は同じだろう。 差別されている女性がすべて貧しいかというと、そんなことはない。サラリーマンの男性より、裕福な女性はいくらもでいる。 また差別されている在日韓国人や、被差別部落の人たちだって、平均的な日本人よりはるかに裕福な人は沢山いる。 社会的に解放されていないから社会的な差別を受けるが、それでも時によっては裕福な生活は不可能ではない。 しかし、反対に解放されたからといって、全員が裕福になるわけではない。 人種差別も同様である。 差別されている黒人だって裕福な人はいるし、差別する白人だって貧しい人はいる。 もちろん差別される方より、差別する方が裕福な生活を手に入れやすいのは事実だろう。 解放され人間のほうが、経済面に限らずさまざまな意味で、満たされた生活をおくる可能性が高い。 しかし、社会的な解放が、豊かな経済生活を保証するものではない。 解放された状態とは、社会的な自己決定権を入手したにすぎない。 裕福な生活を入手できるか否かは、その後の当人の生き方次第であって、解放は経済的な裕福さとは直結していない。 性の解放も同様である。 社会的な制度や習慣が、自己の願望実現を妨げるとき、解放されていないという。 性が解放されない状態とは、自分の身体でありながら、自分が性関係をつくりたいときに、社会的に禁止された状態をいう。 または、性関係を持ちたくないにもかかわらず、それを強制される状態を言う。 当人たちが合意の上で性交しようとしても、社会的な禁止にあってそれがかなわないとき、性が解放されていないとみなせるだろう。 たとえば、結婚しないと性交が許されないのは、性が解放された状態とは言えない。 ましてや売春を強要されたりしたら、とても性が解放されているとは言えない。 反対は真実ではない。性が解放されたからといって、誰もが豊かな性交を享受できるわけではない。 個人が性交を望むのは個別的なことである。 性が解放されたからといって、当人たちが望まなければ、性交には至らない。 異性に好感を抱かれる人間は性交に至りやすいだろうが、好感をもたれない人間は、性が解放されても性交には無縁だろう。 相手が同性であっても、事情はまったく同じである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
先に進む |