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4.フェミニズムとポルノグラフィ フェミニズムを支持する者が、ポルノに反対するとすれば、Aの絶対派かBの条件派の立場からだろう。 まず、Aの絶対派の立場を検討してみよう。 アメリカではAの立場を表明する女性フェミニストたちがいる。 絶対派の立場は、アンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノンらの主張がそれにあたる。 彼女たちは、すべてのポルノグラフィは男性支配の象徴であり、それゆえ絶滅すべきものだという。 そこで、アンドレア・ドウォーキンの主張を、彼女の「ポルノグラフィ」から検討しよう。 現代のポルノグラフィは、語源の意味に正確かつ文字どおりに一致している。即ち、卑しい娼婦の生々しい描写、言い換えるなら、助平女、(性的な家畜、性的な動産としての)雌牛、カントとしての女の描写である。この言葉は今日まで意味を変えていないし、ポルノグラフィというジャンル名も実態を正確に表現している。(ポルノグラフィ、P349) ポルノグラフィそのものは、男の性制度にとって、実在的、現実的、かつ中心的なものである。ポルノグラフィにおける女の性欲への評価は、女がそれに基づいたものと見なされ、評価されているために、実在的かつ現実的である。ポルノグラフィに描かれる力は、現実においても同様に女に対して行使されているために、実在的かつ現実的である。ポルノグラフィに描かれ、またポルノグラフィの本質である女の卑しめは、現実に女が同じように卑しめられているために、実在的かつ現実的である。(ポルノグラフィ、P350) ポルノグラフィは「汚い」という考えは、女の性欲は汚いし、それが現実にポルノグラフィに描きあげられているのだし、女の体(特に女の生殖器)は、それ自体で汚く淫らだという確信から発している。ポルノグラフィは、一部の人たちがポルノ弁護の立場で主張しているように、女の性欲は汚いという考えをはねつけているのではない。実際は全く逆に、ポルノグラフィはこの考えを具現する。ポルノグラフィはこの考えを売って、この考えを広める。(ポルノグラフィ、P351) 性行為自体が男女差別の表現だとすれば、それを文章や写真・映像にしたポルノは、性差別の表現そのものである。 そのため、ポルノは無条件で否定される。 この立場には、徹底した一貫性がある。 男性支配の貫徹は、性交それ自体にも及んでいるという絶対派の立場は、一面の真理をついていると思う。 しかし、性交の何をもって、男性支配の象徴と呼ぶのだろうか。 男性が上になることだろうか。 右上の写真のように女性が上になることも可能である。 女性が男性に乗ることも可能だから、性交の姿態で男女の支配関係を決めるのは無理である。 それとも、男性器が女性器に挿入されるからだろうか。 性交を挿入する者と挿入される者と見るのは、挿入する者のほうからの視点である。 この視点はすでに男性側にたった見方であり、女性からのものではない。 左の写真のように、女性が男性器を自らの体内に導き入れるのは、挿入とは呼べない。 下の男性は動いていないのだから、男性が挿入することはできない。 女性側から見れば、この性交は挿入ではなく、迎入とでも呼ぶべき行為である。 迎入という言葉は、普通には使われないが、女性が性交を主導していれば、挿入とは呼び得ない。 性器の結合部分を撮った左下の写真からも、女性の積極性が感じられ、挿入と呼ぶのは難しく、迎入と表現したほうが適切であろう。 性器が結合されてからの運動に関しては、男女がともに腰を動かすのであり、決して男性の一方的なものでもないし女性だけのものでもない。 挿入するのは男性かも知れないが、迎入するのは女性であり、性交は両者が共同してする行為である。 アンドレア・ドウォーキン等は、社会に存在する男性支配を、個人のあいだにまで無前提に拡張しすぎる。 社会的な存在である人間の行為は、ありとあらゆるものが社会からの拘束を受けるから、性交といえども例外ではない。 女性が主導権をもった性交は、下品な言葉が使われることが多い。 迎入という言葉がないように、性交にかんする言葉すら男性側からのものが多いのは事実である。 しかし、彼女たちの論理したがって、性交を男性支配の象徴と見れば、性交に限らず人間行動は、すべて男性支配が貫徹していることになる。 男女が連れ添って歩くことも、言葉を交わすことも、すべて男女差別の確認である。 もっと言えば、言葉を使うこと自体が、男性支配の敷衍になる。 右の写真性は、性交を表してはいない。 しかし、女性の性欲が描かれているので、絶対派から見ればポルノだと断定されるだろう。 絶対的なポルノ反対を唱える彼女らによれば、現代社会で行われる行動は、すべて男女差別の確認であり、女性をおとしめるものになる。 彼女たちの論に従えば、性交を描写したポルノにとどまらず、性に関して人間行動を描写した文章や写真はすべてが汚いことになる。 言葉がすでに男性支配を内包しているのだから、女性は現在の言葉さえ使えず、女性語を発明せざるを得なくなる。 男女別の言葉は時代に逆行するものであり、フェミニズムや本論の趣旨とは正反対のものだ。 性交にのみ話を限定する。 性行為を表現したポルノは、男女差別の象徴的な表現であるとする絶対派の立場に立てば、ポルノは自動的に否定される。 しかし、この立場が諸刃の剣であることは、かんたんに思い至る。 男性支配を糾弾しようとするあまり、性交を否定してしまうと、性をめぐる男女関係は閉ざされてしまう。 確かに男性支配の社会ではあるが、この社会には女性も生活している。 女性も自分の命を長らえようと思えば、種の保存は至上命令である。 絶対派に従えば、性交は男性支配の反映かも知れないが、男性がではなく人間という種が存続するためには、性交は不可欠である。 現実社会の差別を否定するあまり、性交を否定することは人間という種を否定することになり、生き物としての人間を否定することになる。 性交の否定は種の否定であり、女性自身の否定につながる。 現実の社会が、男女差別に満ちているからといって、性行為まで否定してしまうと人間という種は存続できなくなってしまう。 性は生き物の根底を支えるものであり、性関係がない生き物は種を保存できない。 そして、性行為は性欲に支えられている。 とすれば性欲の発露は、生き物にとって不可避の表出である。 性交自体は、聖なるものでも汚れたものでもない。 性交を汚れたものだと見なすと、性交の結果生まれた人間は、すべて汚れた存在になる。 そして性交の否定は、人間まで否定することにつながる。 もちろん絶対派の立場からは、男女が性交を謳歌する回路は、まったく閉じられる。 ここで残るとすれば、女性同士のゲイ関係と、医学が介入する人工授精だけだろう。 ゲイの性交では子供が作れない。 また、ストレートの女性が、性交は男性支配だからと性交を拒めば、妊娠の道は人工授精しかない。 だから、子供を持つにあたって、医学の助けが必要になる。 しかし、男性支配の権化であろう医学の手助けを受ければ、より一層の女性差別になってしまう。 しかも、生殖医療はまだ完璧ではないので、最初に前提とした性の解放が進むどころか、人間が絶えてしまう可能性すらある。 人類が途絶える方向は、絶対派の求めるものではないだろう。 より良質な性交を求めたはずなのに、当該社会を男性支配だと断罪することにより、片方の当事者である男性を閉めだすことになり、性交それ自体が成り立たなくなる。 絶対派の立場から導きだされる結論は、女性が男性を、女性が男性を指向する道を閉ざす。 これでは人間という種が滅んでしまい、男女平等も根底からご破算になる。 絶対派の論理は一貫してはいるが、現実に適用すると人間が滅ぶ方向に向かってしまう。 そのため、この立場を取る者は少ない。 最近では性産業従事者たちから、きわめて評判が悪いのも、これらの絶対派フェミニストたちである。 |
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