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JICPAジャーナル(編集:日本公認会計士協会)第一法規出版に連載したものです。 |
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第9回 デジタルな年齢秩序 アナログからデジタルになって屈強な腕力が不要になり、非力な女性や体力の衰えた高齢者そして身体障害者が、成年男性と同等に働ける ようになった、とは前述しました。デジタルは人間の屈強な肉体を不要にしましたが、もうひとつ重大な変化があります。 それは年齢秩序の溶融です。 体験の農業社会 農業が主な産業だったアナログの時代、つまり近代的な社会に入る前の話です。 人々は自分の体を使って、田や畑で働いてきました。 当時も、現在の我々とまったく同じ人たちが、生活していたはずです。 しかし、彼等の心持ちは、今の我々とは随分と違っていたと思います。 というのは、前近代という人類の長い長い時代には、学校なるものは存在しません。 ですから、当時の農業における知恵は、学校で習ったものではありません。 そこでの生きる知恵は、先人たちが日々の労働体験を通して、苦労の末に身につけたものです。 アナログ時代の知恵は、自然と接する長い経験から生まれ、世代を越えて引き継がれました。 稲作を考えてみれば、収穫は一年にたった一度しかありません。 農業はゆっくりと進む自然を相手にした産業です。 耕作の技術や天候を読む術は、一年を通した体験によってゆっくりと体得されました。 毎年、少しずつ違う様相を見せる自然を相手に、当時の人たちはゆったりと生きていました。 しかし、当時、人々の平均寿命は50歳に届かず、今日のように70歳や80歳を超えて、なお元気に生きることができた人は稀でした。 文字が普及していなかったアナログ時代には、長く生きたことがより多くの知恵をもつことの証でした。 ですから年齢を加えていく、つまり長い人生経験をもつことこそ、農業に熟達することでした。 平均寿命がひどく短かったことも手伝って、体力が衰えたといえども、数少ない老人はその知恵ゆえに大切にされました。 老人には体力的な弱者と、知恵者という二面があります。 肉体労働が支配的なアナログの社会では、深沢七郎の「楢山節考」が描くよう に、体力の衰えた高齢者は社会の余計者でした。 しかし、老人は長く生きたことによって、多くの知恵を身につけていたので、数少ない老人は知恵の塊といってもよい存在でした。 アナログ時代の農業では、老人の知恵がとても有用でした。 ですから老人の知恵が、言いかえると老人が、大切にされるのは必然でした。 年齢秩序のフラット化 デジタルな世界は、経験から得られたカンや知恵によってではなく、論理的な思考によって組み立てられます。 デジタルな論理を組み立てるには、注意深い観察力と洞察力が必要なだけで、必ずしも長い経験を必要とはしません。 自然のゆっくりした繰り返しではなく、デジタルは忙しい人間社会の要求に応えるものです。 ここで、長い経験つまり長寿の社会的な有用性がなくなりました。 若くても年寄りでも、やる気と論理的な思考力さえあれば、デジタルな仕事は誰にでも担えます。 デジタルの普及によって、人間は歳を取る必要がなくなり、肉体的には老いていきながら、精神的には若いままで居続けます。 長い経験から得た知恵よって敬意を払われた人たちは、もはや高齢というだけでは社会の中心には居続けられなくなりました。 アメリカの例をだすまでもなく、デジタル社会の最先端にいる指導者たちが、若い所以です。 農業における知恵、それは季節ごとや年ごとに移り変わる自然を読むことでもありました。 長年にわたる豊かな人生経験が、自然の変化を 予測させました。 長い経験が知恵を支えたアナログ社会では、若者より老人のほうが賢いことは自明でした。 しかし、デジタルな社会では、年齢の多寡と人間的 な賢さは無関係です。 経験から導かれたカンは、時として社会の変化に棹さします。 経験にもとづくカンより、非人間的なデーターベースを読むほうが、より正確な予測ができます。 しかもデーターベースの構築には、長い経験ではなく論理的な思考こそが不可欠です。 今や人間は、人生経験が長いだけでは評価されませんが、健康で意欲と知的な好奇心をもつかぎり、老若男女の誰でもが平等に価値ある生き物だと見なされるようになりました。 |
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第10回 デジタルな制御へ進む