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JICPAジャーナル(編集:日本公認会計士協会)第一法規出版に連載したものです。 |
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第6回 人工知能 コンピューターによるデジタルな理解が進んでくると、人間に代わる人工知能が生まれるのではないか、と多くの人が論じています。人工知能つまり機械が考えるとは、いったいどんなものでしょうか。 それはジョージ・オーウェルが、「1984年」で描いたような殺伐とした世界なのでしょうか。 右脳と左脳 私たちは知らずのうちに、認識したり考えたりしています。 考えることそれ自体を自覚するのはできませんが、思考作用とはつきつめてい うと、脳細胞のなかに信号を流すことです。 この信号は流れる = ON か、流れない = OFF かのどちらかで、信号の強さは変化しないことが確認されています。 これはコンピューターのなかを流れる信号、つまり電流の ON = 0 や OFF = 1 とよく似ています。 そのため、人工知能が可能ではないか、と想像されます。 それはあまりにも複雑な仕組みなので、まだ解明されていないだけだ。 脳細胞のなかでなされる計算の集積が、判断だったり記憶だったりすれば、人工知能を作り出せるかも知れません。 デジタルな理解という方向からも、脳の構造がさかんに研究されてきました。 人間が何かを考えるのは、すべて脳の働きによります。 しかも脳の中でも、大脳と呼ばれる部分の働きです。 大脳は、右脳と左脳の2つの部分からできており、両者は違う役割をもっています。 右脳は図形や絵画などの空間認知を、左脳は言葉や計算を主に扱っています。 つまり右脳はアナログ的な仕事を、左脳はデジタル的な仕事をしています。 そして、両者は脳梁によって繋がれており、その間を信号が行き来して、脳は総合的な判断を下しているわけです。 自分の脳を見ることはできませんが、脳の解剖標本などをみて、考えている自分の脳を考えることはできます。 鏡に映った自分を見ている 自分と同様に、自分が自分を考えるのは自分を意識化することです。 そのうえ私たちは、考えている脳を考えている脳をも、考えることができます。 思考とは手順か 通常、人間は言葉を使って考えるように思います。 しかし、言葉が思考を支えているのでしょうか。 もし、言葉が思考を支えるとすると、 地球上には何万もの異なった言葉がありますから、地球上には何万もの異なった思考が存在することになります。 また反対に、同じ言葉を話す人でも、違う思考をもつことがあるのは、どう説明したらいいのでしょうか。 言葉は本当に思考の支えなのでしょうか。 しかし、言葉でたどれる思考とは、何だか浅い感じもします。 深い思考とは、言葉を越えた世界にあるようにも思います。 言葉を使ってする思考とは、判断の手順に過ぎないのではないでしょうか。 手順に従った思考の範囲なら、コンピューターでも可能です。 そこで思考とは何かが、問題になります。 ロジャー・ペンローズは「皇帝の新しい心」で意識を問題にし、意識は手順に従ったものではないと言います。 意識の先にある深い思考と は、言葉を積み重ねて得られるものではなく、考え続けた先に閃くものでしょう。 ペンローズの言葉にしたがえば、ある時「あっ」と気がつくものでしょうか。 連続していなければ、閃きは生まれませんから、デジタルには「あっ」という閃きはありません。 思考とは言葉を越えたものであり、思考は言語化された時、その輝きを失います。 判断の手順が明確になった分野は、デジタルが得意とします。 コンピューターがもっと進歩すれば、論理的な手順をおいかける左脳的な作業は、人工知能がおおいに代替するでしょう。 しかし、数学や自然科学の分野であっても、創造的な思考とはつまるところ閃きです。 「あっ」という閃きが新たなものを生むとすれば、断続なるデジタルは最後のところで、思考の代替たりえません。 デジタルなる理解は、アナログなる自然に無限に近づきます。 前回書いたように 0 と次の数字の差は、無視できるほど小さなものです。 しかし、いくらその差が小さいといっても、デジタルなる世界は、決してアナログそのものではありません。 デジタルが断続的であることは、人間にとって代わる人工知能を、最後のところで不可能にしているように思います。 |
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第7回 デジタルの恩恵へ進む