|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
JICPAジャーナル(編集:日本公認会計士協会)第一法規出版に連載したものです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第5回 断続的なデジタル ゆく河の流れはたえず、水は連綿と流れています。そして、水は砂に、砂は岩へと連なり、自然は大きなひとつながりで、切れるところがありません。 理屈や論理を扱うのが得意なデジタルは、自然という連続つまりアナログ的世界を、どう認識するのでしょう。 すべては点へ ボールペンで書いた線を、巨大な虫眼鏡で拡大して見たら、どうなるでしょうか。 インクが切れ切れに続いており、連続していないに違いありません。 しかし、肉眼では連続した線に見えます。 とすれば、極小の点を一直線に並べても、線を描くことができると思いつきます。 しかも、その点は小さ ければ小さいほど、より線に近くなるでしょう。 では、その点がどのくらい小さければ、線と呼べるのでしょうか。 線だけではなく、面であっても小さな点で表すことができます。 印刷された写真を虫眼鏡で見ると、小さな点の集まりであることが判ります。 19世紀の終わり頃、スーラやシニャックら新印象派の画家は、 キャンバス全体を純色の点で埋め尽くし、一枚の絵画にしました。 点描画の発見は、現代絵画につながる道でした。 面を点で表すことが可能なら、立体でも可能 なはずです。 英語ではミルキー・ウェイと呼ばれる天の川は、満天の夜空をよこぎる乳白色の流れです。 今やわれわれは、あれが無数の星の集まりだと知っています。 ところで、もう一度あの星の集まりに、名前を付けなおすとしたら、何という名前を付けるでしょうか。 その時には、個々の星を見て名前を考えるでしょうか。 そんなことはないでしょう。 やはり乳白色の一続きになったものとして、名付ける対象を見ることでしょう。 天の川が無数の星、つまり無数の点の集まりだと知っていても、私たちにとっては、やはり全体としての天の川です。 すべてのものを点へと分解していけば、全体が何であろうと同じ点という単位で表すことができます。 細分化して理解せよとは、昔から言われました。 しかし、細分化すればするほど情報量は膨大になりますから、極度に細分化して自然を認識するのは、人間の能力を超えたものでした。 それがコン ピューターの登場によって、細分化された膨大な情報を、たやすく処理できるようになりました。 連続した自然とは、けっして同じではないけれど、限りなく自然に近いもの、それがデジタルな世界です。 極限的現実とは 012345…といった数字の並びは、連続した数字です。 しかし、各数字のあいだには遠い距離があって、0 の次は 1 ではありません。 0 の次は、0.1でしょうか。 違います。 では0.01でしょうか。 違います。 0.001でもなく、0.00001でもありません。 0の次は、0.9 の 9 が無限に続いたものを、1 から引いた数字です。 つまり、0 ではないけれど、限りなく 0 に近い数字が、0 の次の数字です。 とすると、0 と 0 の次の数字との差 は、どのくらいあるのでしょうか。 この例にしたがえば、0 と 0 の次の数字との差はないといえます。 それを点の話と重ねてみると、数字を精確に扱うことによって、現実そのものが表現できることになります。 現実を微少な点へと分解し、その点を数字で表せば完全な現実ではないけど、現実にきわめて近いものが浮かびあがるわけです。 デジタル的理解とは、現実ではないけれど、もうほとんど現実といってもいいものです。 コンピューターの能力が上がったために、瞬時に膨大な計算ができ、精確に数字を扱うことができるようになりました。 月にロケットを飛ばすくらいの精度はでるようになり、今やその精度もパソコンを使うという形で、我々素人が享受しています。 しかし、どんなに高い精度であっても、デジタル なる数字が表すものは、けっしてアナログなる自然ではありません。 究極のデジタル的理解は、アナログな自然とほとんど同じだと見なせますが、そこにはかすかな違いがあります。 天の川が無数の星の集ま りだとしても、人間はそれをミルキー・ウェイだと見ます。 そして、そこに新たな物語を発見します。 時によって人間のひらめきは、精確なデジタル処理をも超えた精度を発揮することがあり、それが素人のカンが当たる理由でもあります。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
第6回 人工知能へ進む