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JICPAジャーナル(編集:日本公認会計士協会)第一法規出版に連載したものです。 |
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第8回 肉体と頭脳 コンピューターの普及によって、デジタルな世界が身近になって、何が変わったのでしょうか。それは仕事において、肉体的な腕力が不要になったことでしょう。 腕力の無化 今から40年ほど前、高度成長といわれた頃、多くの人にとって仕事をするとは、まず身体を動かすことを意味しました。 重厚長大産業が 隆盛をきわめていた当時、労働の現場といえば、ほこりと汗の匂いがただよい、油で汚れているというのが普通の姿でした。 工場の煙突から煙が立ちのぼるしたでは、騒音にまみれて額に汗することが、あるべき美しい労働でした。 巨大な機械を前に、屈強な人間たちが力を振り絞って働く、それが一家の主じの毎月々の 給料につながり、家族は平穏に生活ができました。 太平洋戦争より前には、国民の半分以上が田や畑での労働にいそしみ、そ こでは肉体的な腕力こそが、働き手の大きな売りものでした。 お百姓さんにしても、職人衆にしても、玉のような汗をかきながら、身体の力を充分に使って仕事に取りくみました。 アナログの世界では、力を振り絞ることが、技術の習得につながりさえしました。 長閑だったこの時代、仕事が終わった後のゆっくりとした休息が、待ち遠しいことだったでしょう。 汗をかいて働いたあとのビールが、何とも言えずに美味しかったに違いありません。 労働に腕力が不可欠だった時代には、非力な女性や体力の衰えた高齢者そして身体障害者などは、どうしても不利な立場になりました。 しかし今日、コンピューターが導入された職場では、腕力はさほど必要とせず、むしろ繊細な注意力が要求されるだけです。 職場の主流はブルーカラーからホワイ トカラーへと変わり、ホワイトカラーには腕力がまったく不要になりました。 気がついてみると、身体を使う労働の典型である農業に従事する人は、わが国では5%以下しかいません。 アメリカでは2%程度です。 その農業にも、コンピューター付きの機械が入って、仕事に腕力は不要になりつつあります。 デジタルな労働では、指先と首から上を使うだけで、身体はまったく使いません。 モニターを見つめ、指先を動かすだけの仕事。 一日中、 机の前に座って、目玉と指先だけを使う労働者。 もちろん、仕事で汗をかくなど、いまや想像もできません。 身体を使わない仕事を続けると身体は鈍り、内臓には脂肪がたまり足腰が弱くなっていきます。 額に汗して働く勤労の姿は、どこにいってしまったのでしょうか。 仕事と余暇的運動 お百姓さんや職人衆は、仕事とは別に 身体を鍛える必要性は感じなかったはずです。 しかし今日、デジタルな労働者は頭ばかり使い、仕事をすればするほど身体は鈍っていきます。 ですからデジタルな労働者は、仕事で鈍った身体を、どこかで鍛えてやらなければ、頭を支える身体が崩れてしまいます。 アナログ労働者には無縁だったアスレチック・ジム通い が、デジタル労働者には不可欠になりました。 デジタルな発想は、アナログとは比較にならないほどの精度をもたらし、人間の思考が届く範囲は大きく広がりました。 コンピューターの登場は、仕事の仕方やあり方を劇的に変えました。 その恩恵は全産業界に及び、今やコンピューターのない日常は考えられません。 しかし、コンピューターを生みだした頭は、首の上にのっており、身体によって支えられています。 自然から贈られた身体は、きわめてアナログ的な作りです。 日常の手入れを怠ると、身体は順調に動かなくなります。 身体が先に壊れてしまったら、どんな頭でも働けません。 デジタルな仕事の普及によって、労働に腕力が不要になったので、非力な女性や体力の衰えた高齢者そして身体障害者などにも、職場が開放されたのは事実です。 健康でありさえすれば、誰でも職場労働が可能になったことは、とても悦ばしいことです。 社会的な平等の実現は、デジタルによると 言っても過言ではありません。 しかし同時に、デジタルな仕事は、頭と身体とを断絶させてしまいました。 仕事が体を鍛えてくれたアナログの時代には、余暇にする特別な運動は不要でしたが、いまや仕事とは別に余暇の運動として、走ったり泳いだりして身体を鍛えなければならない時代になりました。 |
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