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JICPAジャーナル(編集:日本公認会計士協会)第一法規出版に連載したものです。 |
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第4回 0と1のデジタルな理解 デジタルとは数字という意味でした。それが人間のカンの代打になり、いまやコンピューターの電子回路のなかを断続的に流れる電流、つまりデジタルな信号が計算・判断・記憶をおこないます。 デジタルな理解 人間の眼は、精巧なカメラです。 私たちは目玉に写った花を、色香からその姿までたちまち感得し、無意識のうちに花だと知ります。 では生まれつき眼の見えない人が、突然に見えるようになったら、花が花として見えるのでしょうか。 残念ながら花は見えず、霧がかかったような乳白色の風景が、広がるだけだといいます。 眼で見、手で触って感じているようでありながら、実はそれを認識し、理解しているのは脳です。 脳のなかを走り回る信号が、花を花たらしめ、刺激を痛さとして感じさせています。 しかし、目玉や指先から脳へと走る信号を、体感することはできません。 無意識のうちに花を花だと知り、刺激を痛いと感じています。 自覚できない信号を想像してみれば、形や色など無数の情報を瞬時に脳に送り、脳に蓄積されたデーターベースと瞬時に照合し、これは花 だと判断しているに違いありません。 それがあまりにも早いので、すべてが一度になされたように感じ、認知の過程は自覚できません。 しかし、形や色などの認識・伝達・照合を一コマずつやっても、時間はかかるでしょうが、花だと認知する結果は同じでしょう。 アメリカで英語を学んでいると、アメリカが好きかという質問を、しばしば受けます。 好きなところもあるし、嫌いなところもあって、簡 単には答えられずに躊躇していると、次のように言われます。 まず、YesかNoを決めよ、そしてBut〜と続けるのだ。 But〜と言って心残りなら、また 次にYesかNoかを言えばいいのだと。 大きな問題を考えるときでも、英語ではまずYesかNoを決め、次々に細分化したYesかNoを決ていきます。 そ して判断に迷ったら、途中もしくは最初まで戻って、YesかNoかを考え直す。 YesかNoかとは、0か1のどちらかです。 これはコンピューターの回路内 と、よく似ています。 0と1の世界 コンピューターのする計算・判断・記憶は、電子回路のなかを流れる電流によってなされます。 電流が流れるのをONとし、流れないのをOFFとすれば、回路のなかはONかOFF、どちらかの状態しかありません。 二つの選択肢しかないのですから、一方を 0 とし他方を 1 とすれば、電流の状態 は 0 と 1 のどちらかです。 ですから電流は、二つのデジタルで制御できます。 0 と 1 だけの組み合わせで、電子回路に指令をだしてやれば、コンピューターは動きます。 つまり、機械言語と呼ばれる 0 と 1 の並びだけで、コンピューターは意味をもった世界を語ります。 しかし、花という言葉は花というモノがなくても、理解することは可能です。 脳のなかの花という概念が、花を花たらしめる。 つまり花を理解するには、花という概念があればよ く、花というモノは不要です。 言葉はモノの支えがなくても言葉であることが、デジタルによって明らかになってきました。 0 と 1 のデジタルな列を読めれば、 コンピューターは花を花と知ります。 それが色香ある花という生の現実と、0 と 1 で表されるコンピューター言語の関係です。 0 と 1 のデジタルな世界は、理屈や論理をあつかうのは得意です。 しかし、情緒と呼ばれるように流動的で、不定形な世界は不得手です。 そしてコンピューターには、閃きといった発想の飛躍もありません。 それはデジタルの世界が、 0 と 1 という断続したものだから、茫洋と連続した世界を表すのが難しいのでしょう。 デジタルな思考が人間の代打になるのは、まだまだ完全ではなく、直感とか閃きそして禅的な悟りには遠く及びません。 |
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第5回 断続的なデジタルへ進む