11.おわりに 性別が肉体的な性を表し、性差が社会的な性を表現する。 事実としての肉体と社会性としての人間が分離し、観念が事実を乗り越えることが可能になった。 コンピュータの登場を見ればわかるように、観念が観念だけで展開しうる。 観念的労働の産物つまり知識が、社会を変えうることが明らかになった。 知識は観念であり、かつ今や現実である。 軽く透明な知識が、個体維持にきわめて有用である。 事実としての肉体と、社会性としての人間が分離したから、男女が等質となった。 事実としての肉体に支えられなくても、観念する人間は個体維持を担いうる。 人間の知こそ個体維持に有効である。 それがとりもなおさず、自然なる母の否定であり、母殺しである。 観念の自立は、人間関係をも変える。 現代人は自分の手で、自然つまり神を殺してしまった。 もはや神のために、人身御供として人間の命を捧げることもないし、殉教して神に自分の命を投げだすこともない。 そして、生まれつきの支配者という特権的人間を認めない。 男性も女性も全ての人間が等価だ、といって神から自立した。 だから人間を、無条件で受け入れてくれる寛容な神や自然はもう存在しない。 現代人にある自然は、観念によって意識された自然であり、生の自然ではない。 神はもうどこにもいないのだ。 近代の工業社会が混沌で開幕したように、工業社会の終盤も混沌が支配する。 神を殺し、父も母も殺した人間は、言葉の意味のとおりに荒野をさまよう生き物になった。 今後は自然という神は人間を支えない。 男女ともに、人間は自分の観念に頼るほかない。 純粋な精神活動という、人間の観念だけが頼りの綱である。 観念=知を鍛えることしか、人間に残された道はない。 生ませの父は男性しかいないし、生みの母は女性しかいない。 自然の摂理は今後も変わらない。 しかし、育ての父は男性とは限らないし、育ての母が女性である必要もない。 男性が父性を担い、女性が母性を担うという工業社会までの常識は崩れた。 男性も女性も一人の人間として存在し、ともに人間的な普遍の追求をめざす。 男女差別がまかりとおった近代が終わり、男女が等質の後近代に入ろうとしている。 考える生き物としての人間の時代がこようとしている。 今後は未明の淡光のなか、父殺し・母殺しを前提にした後近代の考察へとすすむのである。 |