母殺しの思想−フェミニズム誕生の意味するもの
    匠 雅音著 2001.8.20
目  次
1. はじめに 7.ウーマニズムな女性運動
2.農耕社会から工業社会へ 8.フェミニズムの誕生
3.神とその代理人たる父の死 9.子供の認知と母性愛
4.新たな論理の獲得 10.母殺しの意味するもの
5.機械文明の誕生 11.おわりに
6.電脳的機械文明の誕生  
                 
11.おわりに

 性別が肉体的な性を表し、性差が社会的な性を表現する。 
事実としての肉体と社会性としての人間が分離し、観念が事実を乗り越えることが可能になった。
コンピュータの登場を見ればわかるように、観念が観念だけで展開しうる。

 観念的労働の産物つまり知識が、社会を変えうることが明らかになった。
知識は観念であり、かつ今や現実である。
軽く透明な知識が、個体維持にきわめて有用である。

 事実としての肉体と、社会性としての人間が分離したから、男女が等質となった。
事実としての肉体に支えられなくても、観念する人間は個体維持を担いうる。
人間の知こそ個体維持に有効である。
それがとりもなおさず、自然なる母の否定であり、母殺しである。
観念の自立は、人間関係をも変える。

 現代人は自分の手で、自然つまり神を殺してしまった。
もはや神のために、人身御供として人間の命を捧げることもないし、殉教して神に自分の命を投げだすこともない。
そして、生まれつきの支配者という特権的人間を認めない。

 男性も女性も全ての人間が等価だ、といって神から自立した。
だから人間を、無条件で受け入れてくれる寛容な神や自然はもう存在しない。
現代人にある自然は、観念によって意識された自然であり、生の自然ではない。
神はもうどこにもいないのだ。

 近代の工業社会が混沌で開幕したように、工業社会の終盤も混沌が支配する。
神を殺し、父も母も殺した人間は、言葉の意味のとおりに荒野をさまよう生き物になった。
今後は自然という神は人間を支えない。
男女ともに、人間は自分の観念に頼るほかない。
純粋な精神活動という、人間の観念だけが頼りの綱である。
観念=知を鍛えることしか、人間に残された道はない。

 生ませの父は男性しかいないし、生みの母は女性しかいない。
自然の摂理は今後も変わらない。
しかし、育ての父は男性とは限らないし、育ての母が女性である必要もない。
男性が父性を担い、女性が母性を担うという工業社会までの常識は崩れた。

 男性も女性も一人の人間として存在し、ともに人間的な普遍の追求をめざす。
男女差別がまかりとおった近代が終わり、男女が等質の後近代に入ろうとしている。
考える生き物としての人間の時代がこようとしている。
今後は未明の淡光のなか、父殺し・母殺しを前提にした後近代の考察へとすすむのである。

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