4.新たな論理の獲得 その1 伝統的社会の終盤において、人間と共にあった神を、観念が認識する対象として、人間の心の中から切り離した*15。 それまで全能の神は、聖職者という有閑的で、特権的な階級に寄宿していた。 しかし、人間たちが新たな論理を獲得することによって、神は人間の心の外へと押し出されてしまった。 神を信じる対象とする自己の発見。 言い換えると、自然や神といった環境を認識するために、自己と他者という二元構造の論理が発生した。 伝統的な社会では自己も他者もともに神、つまり自然の中に存在した。 だから、人間が自己なる個人としては存在しなかったが、ここで人間は自己として認識する自分つまり個を発見した。 1644年に「哲学原理」を著したデカルトは、 「我思惟す故に我あり」*16 といった。 これが近代的精神の始まりである。 物を見る二つの眼に加えて、人間は自己を見つめるもう一つの目を獲得した。 自己を相対的に見ることを知ったといっても良い。 この時から、自然や神は他者となった。 自己と他者という関係が成立したがゆえに、人間による人間のための人間の社会が始まった。 論理を操る科学の成立といってもいい。 この時、新たな論理を獲得したのは、なぜか男性だけだった*17。 神を殺した男性は、神に代わって神の椅子に座った。 そして、王制は打倒された。 一部の特権的な世襲者が、神の委任に基づいて支配するのではない。 不死の神つまり永遠の命をもった自然ではなく、可死つまり有限の命をもった男性という人間が、多くの男性そして女性という大衆を支配し始めた。 人間の観念は聖なる世界から、世俗なる社会に移住した。 しかも社会的な上位は、すべて男性が独占した。 そして、A・トレップもいうように家庭の中においても、 「男性にはその財力と理性的才能ゆえに、責任ある教育者としての任務が与えられた。他方、女性には生物学的機能と、『生まれつき』感情的であるという資質から、乳児期と初期幼児期を養育する権限が当たられた。だが、そうした乳幼児の養育に関しても、理論家としての男性が女性を指導することは不可欠とされたのである」*18 近代の工業社会では、論理と腕力の優位性が、男性の存在証明を保証した。 有限の命しか持たない男性が、神の仕事をも代行した。 人権を謳う人間至上主義=ヒューマニズムがうまれ、人間の創造力への期待が高まった。 そして、男性の優位性は、男性をしてすすんで個体維持と種族保存に奉仕させた*19。 1700年代から1800年代になると、近代社会は近隣の農耕社会を打ち破り、強大で豊かになった。 武力に秀でた西ヨーロッパの近代社会は、地球上の途方もない領域を支配下においた。 そして、西洋近代諸国に遅れること100余年、わが国の近代も強大になり、アジアの近隣諸国をその支配下に組み込んだ。 拡大する近代社会は、どこも豊かさを満喫した。 豊かさの見返りは、人権のある男性だけではなく、人権のない女性たちも享受した*20。 20世紀になるまで、女性には選挙権が与えられなかったし、契約の主体にはなれなかった。 しかし、近代社会では総体的にみて、健康状態も良くなり、平均寿命も延びた。 消費物資の分け前はずっと多くなり、教育を受ける機会もふえた。 近代社会の女性たちは、前近代にとめおかれた農耕社会の男性より、はるかに豊かな生活を手に入れた。 屈強な腕力に加えて、冷徹な論理を獲得した男性にたいして、女性は非力な肉体的存在のままだった。 伝統的な社会から近代社会への転換において、なぜか女性は論理の獲得に出遅れてしまった。 理屈っぽさや論理的な資質は、男性的だと今でもいわれる。 近代は、男性だけを伝統的な共同体から個人へと解き放ち、女性を伝統的社会に取り残した。 だから、近代の工業社会に入っても、女性は自然にとどまり、神殺しには参加していなかった。 論理的な思考は、産業における生産力を高め、生活に必要なものの生産つまり個体維持に大きく貢献した。 男性たちは必死に働き、より大きな富を蓄積した。 男性たちは生きるに不可欠な生産に従事し、個体維持に邁進した。 論理の獲得にでおくれた女性は、個体維持への貢献においてより劣位におちた。 |