母殺しの思想−フェミニズム誕生の意味するもの
    匠 雅音著 2001.8.20
目  次
1. はじめに 7.ウーマニズムな女性運動
2.農耕社会から工業社会へ 8.フェミニズムの誕生
3.神とその代理人たる父の死 9.子供の認知と母性愛
4.新たな論理の獲得 10.母殺しの意味するもの
5.機械文明の誕生 11.おわりに
6.電脳的機械文明の誕生  
                 
8.フェミニズムの誕生  その1

 20世紀も終盤になって、電脳的機械文明が労働から肉体という属性を解放した。
男性のあいだにおいてすら、屈強な腕力が無意味になった。
だから人間は非力に軽くなり、浮遊しても許されるようになった。

 生産労働つまり個体維持のうえで、屈強な腕力はもはや不要である。
健康でありさえすれば、腕力の多寡はどうでも良くなった。
非力でも、生産労働=個体維持になんの支障もなくなった。

 女性の非力さは、不利な条件ではなくなった。
そのため、男女の生理的な違いつまり女性の非力さを認めても、女性の社会的な地位はまったく揺るがなくなった。
ここでウーマニズムな女性運動は、その桎梏からやっと切り離された。
男女の社会的な等質性を謳うフェミニズムが誕生したのである。

 フェミニズムの誕生は、女性による家庭の見直しではない。
それは生産的な賃金労働への参加宣言であり、非力な女性が社会的には男性に優るとも劣らないという、強い意志表示である*46
フェミニズムは子供を産むことをことさらにいわないし、女性が産む性であることに拘らない。

 伝統的な社会の女性が多産なのであり、フェミニズムが隆盛する社会の女性は、平均的にいって少産である。
出生率の低下は、フェミニズムの普及と平行現象である。
フェミニズムの誕生が真に意味するものは、核家族的家庭からの女性の離脱であり、女性が家事労働の専従者であることの忌避である。

 ウーマン・リブまでの女性運動は、女性による女性のための女性だけの運動だった。
女性が男性と同じ社会的な立場を獲得するという目的は、今日のフェミニズムと同じだった。

 しかし、ウーマン・リブまでの女性運動は、産むという女性の肉体的な属性を運動の原点に据えていた。
だから、女性の身体的な特性にこだわると同時に、男性への女性の性的な魅力を露わにできなかった。
女性がセクシーであることを肯定できなかった。

 ウーマン・リブまでの女性運動は、人間としての普遍を追求するのではなしに、産む性にこだわり女性=母としての特別な権利を要求した。
そのため、弱者としての女性の運動から脱皮できなかった。
男性をも含めた社会全体へと、その勢いを拡張するに至らなかった。
それは、工業社会という時代のなせる限界であった。

 今日のフェミニズムは、個人としての男性や女性が、性的な存在であることを肯定する。
カミール・パーリアもいうように、男女ともにセクシーであることを認める*47
むしろ性別に固有なセクシーさを強調しさえする。
男女ともに性別に特有な個性は、個人として充分に発揮されるべきだという。

 フェミニズムは、男女が違う生き物だと認識するがゆえに、男女の相互依存性を認識している。
そのうえで、個人的な身体の特性と、社会的な存在様式は別の次元の話だというのである。

 個人の生き方と社会的なあり方を切り離したので、女性は社会的な女性性には捕らわれなくなった。
収入のある女性は、自らの嗜好に従って、自由に生きることができるようになった。

 女性運動は自己の女性なるものを見つめることから始まったが、今日のフェミニズムは、もはや工業社会までの社会的な女性性から自由になっている。
女性も男性と同質の社会で働く人間である、と主張する。
だから、生産労働に従事する男女間で共通の会話がなりたつ。

 フェミニズムは、個人的には女性であることに徹底して拘りながら、社会的には女性であることによる特別の権利を主張しない。
生物学的な男女という肉体的な特性は、社会的な性差に直結しない。

 男女なる性別と、男女なる性差は別次元のものである。
それが、女性の社会進出を支えている理論的な支柱である。
だから子供を産まない女性も、フェミニズムを謳えるのだ。

次に進む