8.フェミニズムの誕生 その1 20世紀も終盤になって、電脳的機械文明が労働から肉体という属性を解放した。 男性のあいだにおいてすら、屈強な腕力が無意味になった。 だから人間は非力に軽くなり、浮遊しても許されるようになった。 生産労働つまり個体維持のうえで、屈強な腕力はもはや不要である。 健康でありさえすれば、腕力の多寡はどうでも良くなった。 非力でも、生産労働=個体維持になんの支障もなくなった。 女性の非力さは、不利な条件ではなくなった。 そのため、男女の生理的な違いつまり女性の非力さを認めても、女性の社会的な地位はまったく揺るがなくなった。 ここでウーマニズムな女性運動は、その桎梏からやっと切り離された。 男女の社会的な等質性を謳うフェミニズムが誕生したのである。 フェミニズムの誕生は、女性による家庭の見直しではない。 それは生産的な賃金労働への参加宣言であり、非力な女性が社会的には男性に優るとも劣らないという、強い意志表示である*46。 フェミニズムは子供を産むことをことさらにいわないし、女性が産む性であることに拘らない。 伝統的な社会の女性が多産なのであり、フェミニズムが隆盛する社会の女性は、平均的にいって少産である。 出生率の低下は、フェミニズムの普及と平行現象である。 フェミニズムの誕生が真に意味するものは、核家族的家庭からの女性の離脱であり、女性が家事労働の専従者であることの忌避である。 ウーマン・リブまでの女性運動は、女性による女性のための女性だけの運動だった。 女性が男性と同じ社会的な立場を獲得するという目的は、今日のフェミニズムと同じだった。 しかし、ウーマン・リブまでの女性運動は、産むという女性の肉体的な属性を運動の原点に据えていた。 だから、女性の身体的な特性にこだわると同時に、男性への女性の性的な魅力を露わにできなかった。 女性がセクシーであることを肯定できなかった。 ウーマン・リブまでの女性運動は、人間としての普遍を追求するのではなしに、産む性にこだわり女性=母としての特別な権利を要求した。 そのため、弱者としての女性の運動から脱皮できなかった。 男性をも含めた社会全体へと、その勢いを拡張するに至らなかった。 それは、工業社会という時代のなせる限界であった。 今日のフェミニズムは、個人としての男性や女性が、性的な存在であることを肯定する。 カミール・パーリアもいうように、男女ともにセクシーであることを認める*47。 むしろ性別に固有なセクシーさを強調しさえする。 男女ともに性別に特有な個性は、個人として充分に発揮されるべきだという。 フェミニズムは、男女が違う生き物だと認識するがゆえに、男女の相互依存性を認識している。 そのうえで、個人的な身体の特性と、社会的な存在様式は別の次元の話だというのである。 個人の生き方と社会的なあり方を切り離したので、女性は社会的な女性性には捕らわれなくなった。 収入のある女性は、自らの嗜好に従って、自由に生きることができるようになった。 女性運動は自己の女性なるものを見つめることから始まったが、今日のフェミニズムは、もはや工業社会までの社会的な女性性から自由になっている。 女性も男性と同質の社会で働く人間である、と主張する。 だから、生産労働に従事する男女間で共通の会話がなりたつ。 フェミニズムは、個人的には女性であることに徹底して拘りながら、社会的には女性であることによる特別の権利を主張しない。 生物学的な男女という肉体的な特性は、社会的な性差に直結しない。 男女なる性別と、男女なる性差は別次元のものである。 それが、女性の社会進出を支えている理論的な支柱である。 だから子供を産まない女性も、フェミニズムを謳えるのだ。 |