8.フェミニズムの誕生 その2 フェミニズムがいう社会的な性差の否定は、男性に性差別を禁止すると同時に、女性にも女性であることを理由にさせない。 社会的には、男性に男性という特権がないのと同様に、女性にも女性という特権はない。 フェミニズムは個人的な性別を強く肯定しながら、社会的に強いられた性差の解消を主張する。 個体維持=生産労働において体力の劣性が無化したので、女性は出産・子育てを自己の存在証明としなくてもすむ。 そしてフェミニズムは、出産を性交から引き続く個人的な行為と見なし、子育てを社会的な行動だと見なす。 それによって、出産と子育てを異なる次元のものへと分離させた。 フェミニズムは子育てについて、女性固有の生理に基づく主張を手放すことによって、男性にも女性にも女性が男性と同じ社会的人間であることを認識させた*48。 社会的な次元において、フェミニズムは肉体的な性別を問わない。 フェミニズムは個人の性別ではなく、社会的な性差だけを問題にする。 今日のフェミニズムは、女性が母であることに拘らない。 女性は個人的には非力な体力であっても、自らを社会的な弱者だとは考えない。 女性は女性への社会的な保護を求めはしない。 社会的な男女はまったく対等だと考える。 人間の尊厳をたもつ思想や制度から、女性が排除されることをフェミニズムは認めない。 そして、社会的な制度が、男女に不平等であることを許さない。 就業の自由は、男女に平等に確保されるべきだと考える。 女性が充分に能力を発揮して働ける環境の整備を強く求める。 子供を産むことは女性の生理的な行為であるが、子供を育てることは女性だけに科せられた義務でもないし権利でもない。 出産は個人的な行為であり、子育ては社会的な行為である。 社会的な子育ては、男女両性の人間としての義務であり権利である。 乳母の例をあげるまでもなく、子育ては産みの母以外にも、充分に可能である。 子育てはもちろん男性にもできる。 子育てに母性の賛美は不要である。 フェミニズムは母性の賛美を必要としない。 フェミニズムは、子育てや家事労働の見直しから生まれたのではないことを、何度でも確認しておく。 初期の工業社会においては、女性が優位した女性支配の歴史がないと、女性運動の正当性の根拠をたてられなかた。 だから、フェミニズム以前の女性運動は、正当性の根拠を不確かな歴史に求めた。 ウーマニズムは人類の始まりを女性=母であることが優位する母権制社会に求めざるを得なかった。 しかし、出産と子育てを切り離したので、もはや母権制社会を云々する必要はなくなった。 肉体労働から頭脳労働への転換が、男女の社会的な違いを無化した。 ありもしない母権制に頼らなくても、女性の尊厳はまったく揺るがない。 社会的に必然である運動には、歴史の支えは不要である。 ここでウーマン・リブという女性運動は、フェミニズムという普遍的な思想に転化した。 フェミニズムはヒューマニズムと同質の思想であり観念である。 電脳的機械文明に促されたフェミニズムが、女性を男性と同じ社会的な動物へと力強く変身させた。 最後まで残った女性という被抑圧者たちを解放し、すべての価値を握っていた男性と同等の人権を与え、人類の半分を人間として自立させたのは、子育てから女性を解放したフェミニズムである。 20世紀に人類が作り出した最大の思想は、ウーマン・リブという揺籃期の後に生まれたフェミニズムである。 芋虫とチョウチョが別物であるように、女権拡張運動やウーマニズムと、フェミニズムは違うものである。 たとえ、フェミニズムという言葉が使われていても、今日のフェミニズムと電脳社会以前のそれは、違う概念といわなければならない。 フェミニズムとは、まったく新たな思想なのである。 今日のフェミニズムは、電脳的機械文明の上に花開いたものであり、労働における体力の無価値化が女性の台頭を支えている。 現代の農耕社会つまり第三世界の国々にあるのは、女権拡張運動やウーマニズムであってここでいうフェミニズムではない。 女性運動が性別にもとづく運動から離れて、社会的な性差の解消を目指したときに、フェミニズムは女性だけのものではなくなった。 フェミニズムにおいては、女性も男性と同様に、人間という普遍的なものを追求する。 男女別の道徳や倫理を追究するのではなく、人間としての普遍を追求するから、フェミニズムは男性にも大いに意義があり大きな価値がある。 ヒューマニズムは男性だけのものではない。 それと同じように、フェミニズムは女性だけのものではない。 男性はウーマン・リブには参加できなかったが、フェミニズには女性と一緒にかかわることができる。 フェミニズムは男女の性別的な違いを認めることによって、男性をもその射程に巻き込んでいる。 |