認識×6+忘我論   第3−3回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
  
第3回    性差を越えて   その3
  「性差を超えて」を書いた1982年には、フェミニズムという言葉が普及していなかった。
本論でいうウーマンズ・リブは、今でいえばフェミニズムなのだが、当時のことを考えてウーマンズ・リブという言葉は変えなかった。
ウーマンズ・リブがフェミニズムに転じてきた事情は、「近代の終焉と母殺し」を参照して欲しい。

 ところで、本論はさんざんな評価だった。
女性を養わない気か、とかセックスだけして結婚しないのは無責任だとか、ボロボロにたたかれた。
批判したのは男性だけではない。
女性も批判の急先鋒となったのは、いまでは懐かしい思い出である。
その後の男女をみると、晩婚化・非婚化がすすみ、少子化が取りざたされるようになったのは、周知のとおりである。

 女性たちが職場進出しはじめて、男性と同等に働くようになった。
これも本論が述べた経過である。
我が国の女性運動には、思想的に根本的な欠陥があり、それがウーマンズ・リブ=フェミニズムの普及を阻んできた。
なかでも大学フェミニズムは、働く女性の応援をしなかったし、結果として専業主婦を温存してしまった。

 本論を書いてから10年後の1992年に、新泉社から「性差を越えて」を上梓したが、本論がその核になっていたことはいうまでもない。
本論が1982年に書かれたことは、女性解放にとって誇っても良いと思う。

−追記−
 その後、情報社会の進展をみると、本論の正しさが深まってきたように感じる。
詳しくは「核家族から単家族へ」を読んで欲しいが、以下に本論後をかんたんに記す。

 血縁を重視するのは、大家族だと思いがちだが、じつは違う。
血縁を大事にした家族は、言うところの核家族だった。

 大家族は家が生産組織であり、生産組織からはじき出されてしまうことは、明日からの生活が立ちいかないことだった。
だから誰でもが、家に属さないと生きていけなかった。
そのため、血縁という事実よりも、家を存続させることが大切だった。
そのうえ、産業は農業が主だったので、家は村落共同体の支配に従わなければ、存続することはできない。

 大家族では、血縁の子供が生まれなければ、養子をむかえたし、血縁の子供のできが悪ければ、やはり養子をとった。
反対に血縁の子供が多すぎれば、ほかの家に里子にだすことになった。
いずれも家の生産性が、人間の生き方を決めたから、血縁であるかよりも、具体としての子供を重視した。
つまり大家族では、擬制の血縁など登場する余地はなかったのだ。

 核家族になると、家は生産組織ではなくなった。
なぜ、生産組織ではない家に、人々が一緒に暮らしたかといえば、稼ぎのある人間は成人の男性だけだったからだ。
都市にうまれた核家族には、女性も働く場だった田や畑はない。
そのうえ、女性を受けいれる職場はなかった。

 大家族の時代には、男女はともに田や畑で働く同僚だった。
そのため、男女間には労働が与える連帯感があった。
しかし核家族では、男性は会社での労働、女性は家事労働と、男女の役割がまったく違ってしまった。
もはや男女は、同質の労働に従事する同僚ではない。
養う男性に養われる女性、この男女を結びつけ続けたのは、セックスだけになった。

 大家族では、家が村落共同体に属したので、村落共同体の掟が家族を拘束した。
村落共同体の労働力は、最低限のものが必要である。
村の耕作面積は決まっているので、そこを耕す人間の頭数も、一定の人数が必要だった。
そこで労働力としての頭数を、確保する必要があった。
赤松啓介の「非常民の民俗文化」によれば、労働力を確保するために、産む者つまり女性のセックスは、夫の独占ではなかったという。
そうした目で見ると、夜這いなどの風習も違って見えてくる。

 しかし、核家族では男性が養う見返りに、女性のセックスを独占した。
妻のセックスを独占することからは、産まれる子供が夫の子供であることが、無前提の前提となった。
核家族にあっては、子供は必ず父親と血縁がつながっているはずだった。

 女性には血縁幻想がうまれる余地はない。
血縁幻想が必要なのは、子供の出自を確信できない男性にとってである。
核家族になって、男性によるセックスの独占と、子供の血縁が対になって、家族の支配価値となった。
男性には子供の血縁を確信できない。
ここで血縁幻想がうまれてくることになった。

 情報社会になって、女性に経済力がついてくると、自立した女性は、結婚しなくても生きていける。
その男性がイヤになったら離婚すればいい。
自立した女性は、自分の好きな男性とセックスできる。
情報社会では女性のセックスは、1人の男性が独占できなくなった。

 セックスと男女関係が切り離されたのだから、セックスの結果もまた違った意味になった。
ここで血縁が意味を失ったのである。
もはや血縁にこだわる必要はない。たとえ血縁関係はなくても、自分が愛情を注ぐ対象こそ愛おしい。
当然のこととして、血縁幻想も雲散霧消した。
アメリカなど先進国で、養子が増えているのは自然の流れである。(2007.07.22)

約束された価値へ進む