認識×6+忘我論   第3−1回
1982年〜「花泥棒」に連載

第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
  
第3回    性差を越えて   その1
−承前−
 歴史の変遷は、過去をふり返って見ると、明確にその軌跡を追うことができる。
しかし、同時代のなかで生起している歴史、つまり現代史はなかなか自覚されることは少ない。

 人は言語をつかう本性からして、保守的なものであるから、新しい事柄には、ひどく抵抗を覚えやすい。
けれども今という時間も、やがて過去という歴史のなかへ、位置つけられる運命にある。
だから、歴史のなかへきちんとおかれる前に、現代を記述することも、あながち無用とは思えない。

 ウーマンズ・リベレーション(以後ウーマンズ・リブと略す)=女解放の叫び声が、聞こえるようになって久しい。
今どうやらウーマンズ・リブも、歴史のなかに位置つけることができる時間がたった、と思う。

−ウーマンズ・リブとは何か−
 同時代の事柄が常にそうであるように、女解放運動のなかに、何が発生しているのかは、まだまだ充分に知られていない。
ウーマンズ・リブもその外見は衆目を集めているが、その内実は不明瞭なままで、衆知とはなっていない。

 ウーマンズ・リブが何を主張し、どこへ行こうとしているのだろうか。
なにゆえにウーマンズ・リブがおきたのだろうか。
当然わいてくる疑問である。

 今、主張されているウーマンズ・リブは、かつて主張されたような男女平等論ではない。
かつてのそれは楽観的に(それが主張された時は大変な社会的反発があったが)、男も女も同じ人間だから、男と女は平等である、と言っていた。

 現在のウーマンズ・リブは、男と女の違いを最初から認めている。
その違いの上にたって、肉体的な違い(=性別)が、文化的な優越・劣等=支配・被支配には、結果しないと主張している。
男と女は違うがゆえに、男は男の文化を持ち、同様に女は女の文化をもっている。
そして、男の文化と女の文化は、どちらが優れているとか劣っているのではなく、等価であると主張している。

 一般に、今まで信じられていた男女観は、次のようなものだった。
男と女は違う。
まず身体の構造が違う。
その身体の構造にあったように、男は積極的に外にでて、頑健な肉体労働にたずさわり、女は家のなかで家事をする、というものであった。

 人によっては、女の家事労働も神聖なものであり、男の労働と同じくらいに大切なんだ、と考えてはいたであろう。
しかし一度、女が男に向って「私が男の労働を代ってやってみたい」と言ったとき、おおくの男はどういう態度をとったであろうか。
まず否定的な反応が多いことであろう。

 男が家事などできるわけがないし、女のおまえに一体どんな働きができる。
せいぜい水商売ぐらいが関の山だ、といったところが本音だったのではないか。
男が、はじめて社会へでて働きだしたとき、じつは男も何の特技もなかったことは、すっかり忘れてしまっている。

 男の意識には、やはり男のほうが優れており、女は一段低い生きものという意識が、無意識のうちにひそんでいた。
ましてや、性関係にいたっては、男は女を征服するものであり、男の能力にその大半がおっている。
女から性関係を求めるのは、はしたないこと=悪いことであるとされて来た。

 今まで言われてきた女らしさは、じつは男が作ったものであり、女の本質ではない。
女のほうが男よりも感情的かもしれないが、男のほうが感情面でもろく、精神的な破綻をきたしやすい。女はすぐれている。
男にない美点をたくさんもっている。
女は優秀である。
女よ自信をもて。
女は美しい……。
男が悲鳴をあげ、屈服し、真に理解するまで、ウーマンズ・リブの運動は、これからも延々と続くことだろう。
今、ウーマンズ・リブ=女解放という妖怪が飛んでいる。

−女差別の歴史−
 どんな階級闘争も、だいたい4〜500年で一つの決着を見た。
しかし、性別による支配(=価値感の違い)は、文化を背景として何万年ものあいだ、問い直されることなくすんできた。
いままで男は女を自分の所有物、一ランク下のものという眼でみてきた。
男は男の存在に確固たる自信をもっていた。

 男は仕事=労働をとおして、自然に働きかける手ごたえを実感して、男の世界を築いてきた。
しかし、新しいウーマンズ・リブは男である、女であるということそれ事体を、検討の遡上にのせてきた。
今までの男女観が、根底的・全面的に検討されている。

 最初、女たちの主張は、男たちの作った社会的生産関係のなかに参入することを、目ざしているように思われた。
しかし、もはやそれをつきぬけて、その先に進んでいるように思えてしかたない。
現実を見ると職場に入って2、3年もすると、よき伴侶を見つけて結婚し、子供ができると子育てに専念すると称して、職場を去ってしまう女が多いのは事実である。
腰かけ・無責任・鈍感といった、批判に値する女が多いのも否定はできないが、いつの時代も先駆者は少数だし、困難な道を歩く運命にある。

 日本でのウーマンズ・リブは、主体である女の力量不足もあって、どうも興味本位に語られるだけで、ウーマンズ・リブの本質が見落されているように感じられる。
けれども、ウーマンズ・リブの本質は興味本位に尽きるものではなく、もっと根元的な人間の生き方の問題として今提起されているのだ。

 男である私が、ウーマンズ・リブを語るのは妙な具合だが、プロレタリアートの解放は同時に支配者たるブルジョアジーの解放である、という有名な台詞から、今、私は女の解放は、まったく同時に男の解放である、と位置つけようと思う。

 変革の思想は、常に支配者のがわから与えられるとすれば、男である私がウーマンズ・リブを語るのは、むしろ義務ですらあると思えるのである。

 人類史の初めの段階で見られたように、社会的生産関係のなかへ女が参入してくることは、何もことさらウーマンズ・リブといわなくても、労勧力が不足している社会では当然要求されている。
たとえば、農業にあっては、女も男と変わらぬ、重要な労働力として期待されている。
能率・成果の違いはあれ、農業には男でなければできない種類の労働はない。
農作業だけを取りだして見た場合、女たちだけで充分に生産の果実が入手しうる。

 ある種の社会主義社会では、女も家庭だけではなく、社会で働くのが当然とされている。
社会主義社会では、日本なら男の仕事と思える領域にも、女は沢山ついている。
しかし、これはウーマンズ・リブとは何の関係もない。
これはウーマンズ・リブとは言わない。

 今までの労働や、労働力の概念で考えるかぎり、ウーマンズ・リブの登場は、まったく予想すらできない。
ウーマンズ・リブは直接的な労働力不足からおきた運働ではない。
むしろ、労働が単純機械的な地平から離れた、いいかえると文明が進んだ段階で発生したことに、注目すべきである。
現代科学や機械文明の、もっとも進んだといわれるアメリカ合衆国で、ウーマンズ・リブが発生した事実は、 単なる隅然でも陽気で気のいいアメリカ人だけの特殊な流行現象でもない。
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