認識×6+忘我論   第2−1回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
  
第2回   擬制の血縁   その1
−承前−
 自己認識と平行して言語を体得するが、言語は他者と他者のあいだから発生して、他者と自己のあいだを架橋する。
そのため、私たちの世界では、最後のところにきて、言語が人を撃ちぬくことができない。
前回はこの結論に達した。

 これは単に振りだしに戻っただけである。
私たちの世界を、図式的に描いたにすぎず、この論のなかで何かが見えてきたというのではなかった。
むしろ、私たちの立っている場所の最低の確認であり、いかに状況は困難であるかの確認であった。
自分の尻尾を追って、くるくる回る犬のように、環状の記述であった。

 しかし、私たちはすでに禁断の実を食べてしまった。
言語を使うかぎり、認識とその結果生みだされる論理からは、のがれることはできない。
世界を我ものとするためには、言語を鍛える以外に方法はない。

 たとえ、底なし沼に石を沈めて、基礎を築くような行為に見えようとも、私は論理の根底化として、言語を書き連らねていこうと思う。
いろいろの分野で、垣間見た事柄を少しづつ連らねて、水の上に浮かぶイカダを作るような作業になる。
いつになったら終えるのか判らない、あてのない旅に出発しよう。

−先行世代−
 社会や国家は、一見すると非常に複雑な機構になっているように見える。
何が本質なのか、なかなかつかめないことが多い。
一つの社会が、何に基礎を置いているかを考えるには、いろいろな切り口がある。
今、親子という世代関係の検討から、入っていくことにしよう。

 私たちは誰でも父や母をもち、また、父や母もまたその父や母をもつといった形で、誰でもが一対の男女を親としてもっている。

 ヒトが動物であるのは確かだが、ヒトは動物であるだけではなく人でもある。
そして、ヒトが人たる理由は、その社会性=想像力にある。
つまり、一人のヒトは、動物として生れたのであっても、人になってこそ意味がある。
社会性を身につけないと、ヒトを人とは呼ばないだろう。

 社会性の獲得とは、自己認識に他ならないのだが、社会性は生得のものではなく、誕生後の養育によって与えられる。
多くの場合に、既成の価値観を身につけた親という先行世代が、その社会の価値観を、子育てというかたちで子供に注入する。
そのため、社会性の獲得、いいかえると自己認識にとって、親子関係はきわめて重要な役割をもってくる。

−親子関係−
 かつてはセックスをした男女が親であり、女性から生まれる赤ちゃんは、セックスの相手だった男性の子供に100%間違いがなかった。
生命科学の発達によって、単純明解だった親子関係が、次第に複雑怪奇なものになろうとしている。

 いままで親子といえば、生みの親・生ませの親であるだけではなく、同時に血縁の親でもあった。
最近のニュースを見ると驚くばかりであるが、セックスとは無関係に子供が誕生するようになった。
いまでは、生みの親、生ませの親、血縁の親、これらが別々の男女でありうる。血縁に支えられた親子関係が、変形をうけようとしている。

 血縁に執着する国民といわれる日本人にとって、生命科学の発達は重大な意味をもってきた。
ときどき産院で、赤ちゃん取替え事件がおきて衆目を集める。
かつては在宅出産で、産婦は家におり、産婆が出張してきた。
そのため、そうした事件がおきる心配は、まったくなかった。

 第2次対戦に敗れて以降、ドイツ式だった医学もアメリカ式にかわった。
出産の方式も、ずい分とさま変りした。
現在、日本の出産は99パーセントが、産院での分娩となっている。

 最近の産院は、さながら近代工場のようだという。
人手不足をおぎなうためと、産院経営の合理化のために、分娩促進剤が使用されている。
その結果、予定分娩日の日中に、スケジュールどおりキチンと分娩されている。
そして、誕生した赤ちゃんは、衛生上の配慮により、新生児室なる別室へ隔離され、数日後に母親と対面させられる。

 在宅出産なら、はじめから新生児は家にいるのだから、取替える事故などおきようがない。
多くの新生児がいる産院での出産だったため、非常に不幸な偶然の重りで、赤ちゃん取替え事件が発生したわけだ。
ところで、この赤ちゃん取替え事件に、親子関係の深淵な理を見ることができる。

−赤ちゃん取替え事件−
 赤ちゃん取替え事件にそって、親子関係を検討してみよう。

 新生児室から母親のもとへと、赤ちゃんが連れてこられ、母親と赤ちゃんが初めて対面をする。
もちろん父親のもとでも良い。
母親や父親たちは、看護婦さんからこれがあなたの赤ちゃんだと言われたとき、すぐに第六感が働いて、いやこれは私たちの子ではないと言っただろうか。

 それなら取替えがおきるはずはないから、おそらくそうではないだろう。
手渡された赤ちゃんを見て、ああこれが私の子か、と自然のうちに思えただろう。
他人の赤ちゃんだとは、想像だにしなかったに違いない。
そして、目の前にいる赤ちゃんを、充分に可愛いと思って育ててきたはずである。

 それが何かの拍子に、じつは自分たちとは血縁がなく、まったくの他人の子を育てていたと知る。
そして、愕然とする事態に陥ったと思う。
血縁がないという事実を知ってしまうと、何となく愛情が冷えたような気分になり、一体いままで私たちは他人の子を育てて来たのか、と絶望に陥入る気持ちになったはずである。
そして、なぜこうなったか考えると、産院での分娩時に行きあたった次第であろう。

 以前のように在宅出産がふつうの場合は、間違いようはなく、当人たちの子供である保障があった。
しかし、現在のような産院出産では、じつのところ本人たちの子供だという保障はない。

 父親である男性の立ち会いも許されず、出産後すぐに医者や看護婦たちの手によって、新生児室に集団隔離される現状は、いつでも取替え事件がおきる可能性がある。
こうした事件がきわめて稀なのは、医者や看護婦たちの注意深い善意の配慮によって、防がれているにすぎない。

 複数の新生児が一緒にいる状況では、どんなに制度や施設を整えても、間違いのおきる確率を零とすることは不可能である。
しかし、産院に入院する時に、赤ちゃん取替えにたいして、不安を感ずる親はほとんどないはずである。

 自分たちの赤ちやんが、取替えられるかも知れないという恐れを、心のほんの隅にでも抱いて産院の玄関に入る産婦は、絶無といっていいであろう。
他人の子供を手渡されることは、想像すらしてみない人ばかりのはずである。
むしろ、生まれてくる子供の五体満足とか、母子ともに健康であれ、といったことを心配しているはずである。
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