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<神仏人>で、認識の基礎となるべき骨組を提出した。 <擬制の血縁>では親子の愛情関係、つまり世代の問題をあつかった。 そして、<性差を越えて>ではウーマンズ・リブをとおして、性別・男女の問題をあつかった。 前三回にわたって、認識の理論を、構築する試みを続けてきた。 ここで一つの里程標に、どうやら達っしたと思う。 人は有性生殖をする類的存在である。 人が時空間性のなかに存在する証しとして、世代と性別はタテヨコの座標軸であり、個はその交点に存在する。 世代と男女の両者をあつかうことによって、種族保存と個体維持といったヒトの存在の環を一応素描した。 情況へと斬りこむ武器たる認識の理論は、さまざまな分野を彷徨し、ささいな事柄をたんねんに拾い集めて、それを二重・三重に対象化する作業のなかに、かすかに見えるだけかもしれない。 けれども、前述のようにこの旅は、海図のない海を行くものであり、水面に筏を浮かべて基礎をつくる、といった困難な作業と ならざるを得ない。 一見すると無意味・無関係と思える世界に、さまよい込んでしまうかも知れないが、海図のない領域を航行する者には、それも仕方のないことである。 たくさんの試行錯誤が必要なことは自明なのだ。 個から類へ、類から個へといった、順送りの円環構造をからめるなかで、もう一度<神仏人>で考えた人の世界へ戻っ てみよう。 −認識の基礎− 筆者にとって、本論の地平に至るのは、とても時間がかかった。 <性差を越えて>で、問題の探るべき方向は見えていたのだが、それをどう展開していけば良いのかが判らず、相当まわり道をしてしまった。 ヒトから発っして世代・性別を経て、また人という個へ戻る回路は、なかなか発見できなかった。 今は見えようになった。 じつはこの回路を解明する鍵は、<性差を越えて>で考察したウーマンズ・リブの運動に直接に論及するのでばなく、<言語>とそれを支える<約束された価値>を、検討する作業にあった。 ウーマンズ・リブが革命的であることは、周知に属する。 そして、ウーマンズ・リブが華やかであるために、つい目がそちらに向いてしまうが、検討すべきはウーマンズ・リブという運動自体ではない。 検討の対象とすべきは、運動がおきざるを得なかった社会だった。 社会的にはいつもそうなのだが、新しく成起するすべてのことが、突然変異として突発的に発生するわけではない。 新しい事象は、それ以前の社会を母として生れるものである。 だから、ウーマンズ・リブを語る時は、今までの男社会の研究が、先行しなければならないのである。 逆のように見えるかも知れないが、ウーマンズ・リブの研究は、女の研究を要求しているのではなく、まず第一に研究されるべきは男である。 まず、男たちが作ってきた認識の構造が、解剖されるべきなのである。 ウーマンズ・リブが、アメリカ合衆国で先端的に語られ、実践されている。 そのため、ついアメリカ合衆国へと眼がいきがちである。 しかし、ウーマンズ・リブー般が、存在するわけではなく、実存する個人にとってのウーマンズ・リブが存在するにすきない。 日本の社会にかぎっても、まったく同じことが言える。 その個人が日本人だとすれば、日本のいやむしろ日本語のウーマンズ・リブが、語られなければならない。 個人の時空間を限定していく作業から、本物のウーマンズ・リブが見えてくるだろう。 日本語の女は、日本語の男の肋骨をもたざるを得ない。 いいかえると、日本のウーマンズ・リブは、日本の男社会的特性から自由ではない。 むしろ、日本の女も日本的特性を身につけて、自らを実現してこざるを得ない。 ここでもまた、私たちは今ある日本語の社会の解剖を、要求されているのに出会うのである。 <性差を越えて>で、予感的に判っていたことがもう一つあった。 これがおそらくウーマンズ・リブの、真に根源的な重要性・革命性になると思われるのだが、それは今までの認識の手段が、もしかすると役にたたなくなってしまうかも知れないということである。 その理由は2つある。 1つ目は、今まで認識の有力な武器であった言語は、他者間から発生したとはいえ、その他者たちを支えてきた基盤が、労働にあったのではないかと考えられる。 ヒトとヒトが労働の場において、自然を媒介としてとり結ぶ関係が、言語を形作ってきたのではないか、と思えること。 そして2つ目は、今までの世界は言語が物自体と、そのまま一体になった世界であった、と考えられるからなのだ。 いままでの言語は、現代社会にあっては言語自体として、変質せざるを得ないかもしれない。 そうした予感を、労働価値感の変質としてとらえたウーマンズ・リブのなかに感じる。 今回は<神仏人>に重ねるべき、次の礎石を検討してみることにしてみよう。 | |||
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