認識×6+忘我論   第7−1回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
    
第7回    忘我   自我の反対側にあるもの   その1
−承前−
 合理を求めているのも人だが、また、人は不条理な存在でもある。
人の行動は、つねに論理で解釈可能だ、とはかぎらない。
自己の認識において、合理では理解できない世界がある。
それを認めるのに、筆者はやぶさかではない。

 今まで6回にわたって、人の認識の構造をさぐって論をすすめてきた。
認識を身につけるのは、幼児期から言語を獲得するのと、同時並行にすすむ。
言語を獲得できた分だけ、認識力や思考を身につける、と考えてきた。

 知っているということを、知っているのが人であり、自己を疑うのが人である。
だから、自己を相対化する作業が、必要なのだといってきた。
けれども、私たちの行動は合理的な論理だけでは、説明し尽くせない部分があるのも、また認めざるをえない。

 思考や認識と、人の行動とが、直結的に結びついているなら、今までの論で説明しつくせるだろう。
しかし、それだけでは説明できない例が、多すぎるようにも思う。
例外ともいうべき世界を考えて、本論のしめくくりとしたい。

−自分の判断結果−
 よく聞く話だが、自分は大学へ進学したかったけれど、家の事情が許さなかったので進学を断念した。
とか、ほんとうは別に好きな人がいたけれど、周囲の反 対にあって、やむなくその人をあきらめた。
そして、気は進まなかったが、今の夫と結婚したといった話がある。

 私たちは周囲の事情によって、自分の意に反して、人生を変更せざるをえなかった話が好きである。
なぜ、実現できなかった過去の話が、共感を呼ぶのだろうか。
現在の生活が不本意からだろうか。

 年老いた人が、過去をかえり見てセンチメンタルな感傷にひたるなら、この懐古も良いだろう。
しかし、人の認識を考えるうえでは、この懐古を認めることはできない。
現在にこそ意味がある。
明日のために過去を振り返るのであって、過去はつねに現在から再編成された価値列である。

 上記のような懐古的な心の動きも、人格統一の重要な一つではある。
しかし、皮肉な見方をすれば、自己保身の理屈でもある。
大学への進学は、昼間部だけではないし、また場合によっては、働きながら大学へ通うことも不可能ではない。

 結婚するのは当人であり、周囲が反対しても結婚は可能である。
周囲の反対にあって、結婚をとりやめたとすれば、もともとその程度の関係だったのだ、と言 いたくなる。
自分のではなく外部の理由によって、不本意な人生を選んでしまった、という恨みすら聞えてくる。

 周囲の反対にあって結婚をとりやめたのは、当人がその相手を選ぶことは損だ、と総合的に判断した結果だ、といったら酷であろうか。
人は同時に2つの選択はできない。
その時の当人の、もっとも妥当と思われる判断がなされているはずである。

 周囲の反対を押し切れば、その責任をすべて自分で負わなければならない。
結婚後に惨めな情況になっても、結婚した相手も責任を取ってはくれない。
自分の 意志をとおせば、精神的にも物質的にも自立しなけれはならない。
不確定な将来を、全部的に選択することになる。

 周囲の反対を押し切って、苦労するかも知れない人生を歩むよりは、保障された楽な人生を送りたい。
今の夫と結婚したのは、自分の判断にしたがうより、外部の判断にしたがったほうが安全だ、という判断の結果なのではないだろうか。

 そこでは明らかに当人が判断している。
具体の世界では、当人に判断力がないとか、判断のための情報が少ないといった、留保を付けることが許さない。
もっといえば、たとえ小さな子供であっても、自分で決断している。
子供の人生を、親が責任とることは不可能である。

 あえて妙な話からはじめたが、この話は自我を考えるときに、とても参考になると思ったからだ。
つまり、私たちはいつも現実と向い合って、生活しているにもかかわらず、現実感意識が希薄で、自分で選んでいるにもかかわらず、その意識がないことを考えたかったのである。

 自己決断の結果の帰属は、自我と責任のありようの問題と、共通していると思える。
人生を選択した自我が、いつの間にか移動して、現在に大不満というのではないが、何か自分以外のところから、人生が決められている感覚ではないか。

 自己の外に責任おくのは、認識を考えるうえでは無意味である。
本論で述べてきたのは、生身の人そのものである。
もっと切実な自己認識を問題にしている。
自己を見つめないない、という回路をふさいだうえでも、なお、はみ出してしまう人の行動を考えていこう。
そして、自己を見つめない回路が、なぜ生じてしまうのかも考えてみよう。

−自我を失うとき−
 人が物を食べることを考えてみる。
毎日くりかえす当り前の行動は、原因や動機、その過程のすべてが、どんなに複雑な要因によってなされていようと、平常であれば、それを説明し尽すことは可能である。

 毎日、食事をしている時刻がきて、空腹を感じてきた。
そこで、厨房にいって何か作って食べた。
ここでは、物を食べるための条件は、無前提的に前提されている。
まず、食物はお金をはらえば、容易に入手できること。
当人はそれをなし得る経済状態にあることなど、他にも多くの条件が考えられる。
けれども、そう した条件はすべて想像可能であるし、設定するのが簡単である。

 ところが、物を食べるという単純な行為も、遭難したた旅客機の生存者たちということになると、話はひどく難しくなる。
何も食べ物がなくなっても、やはり何か食べないと空腹になる。
食糧が尽きて、何も食べられなくなると、極度の飢餓感が襲うだろう。

 その情況を想像して見よう。
まずどうにもならないひもじさである。
空腹が極限までくると、最後は餓死である。
餓死にいたるまでには、さまざまの思いが脳裏を横切るはずである。
平常時には石にみえていたものが、食べ物に見えたり、物かげに食べ物がある、と思うような幻覚が発生するかも知れない。

 これまでは、人は外部状況を精確に認識し適切な判断をする、として論を進めてきた。
しかし、ここで話は逆転する。
つまり、食欲という肉体的欲望によって、いいかえると内部的な要因で自らの判断をする、という構造におちいるときがきた。

 ここでも想像し、幻覚を見る自己は存在するが、この自己の状況は今まで考えてきたのとは、ほとんど逆の、むしろ異質な自己であるといって良い。
物を食べ るという普通の行動も、その先には異様な領域をもっている。
いわば極限である。
人は極限では、通常では説明つかない認識や行動を見せる。
極限で体験する自我を、<忘我>と呼ぶことにする。

−スクリーンに陶酔する−
 忘我は非日常的な世界でなければ、経験できないわけではない。
毎日の普通の世界でも、しばしば体験できる。
だから問題はやっかいなのである。

 開演を知らせるベルがなって、場内がだんだんと暗くなる。
観客はこれから始まる映画を心待ちにしている。
すでに心はスクリーンに向っている。
映画がは じまる。
佳境である。
観客はすっかり映画のなかの人である。
よくできた映画であればあるほど、見る人をひきつけ、陶酔させる。
そして、終演。

 映画館の外にでても、いま見終わった映画の名残りが体のなかにある。
あたかも自分が、映画の主人公になった気分がつづく。
やくざ映画を見たあと、肩で風をきって歩いた経験は、誰でももっているはずである。

 映画は虚構の世界の話だから、現実ではないと誰でも知っている。
1500円をはらって、2時間の楽しみを買っているのは、もとより承知のうえである。
映画のような人生を、歩いてみたいと憧れてはみても、それが実現することはない。
いやむしろ、実現しては困ることは、誰でもが知っている。

 そうは判っていながら、よくできた映画を見ていると、知らず知らずのうちに、スクリーンのなかと自分が一体化して、区別がつかなくなってしまう。
人は映 画に、ほんの一時の陶酔を求めていくのだとすれば、何の不思議もない。
しかし、ではなぜ、人は我を忘れて陶酔できるのだろうか。

 今まで前6回の記述は、いかに我を知るかということをめぐって、論を進めてきた。
我を忘れるではなく、我とは何かを問いつづけてきた。
しかし、映画を見ている物体としてのヒトは存在しながら、その時その人は我を忘れている。
ヒトがいるのに、我を忘れている状態を忘我と呼んだが、忘我という心理もまた私たちは経験する。
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