認識×6+忘我論   第1−1回
1982年〜「花泥棒」に連載
 
第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我

第1回  神・仏・人  その1
−起−
  ヒトは生れた時から、自己は自己である、と思うわけではない。
生まれたばかりの赤ちゃんは、自分が何者であるか知るはずがない。
具体的に生後何年ころから、自分を知るのだろうか。
いいかえると自己は自己である、と何時から思うようになるのであろうか。

 おそらく、それは自己の外に存在する、さまざまなモノを認識する作業より、ほんの少し遅れて、しかし、それとまったく同じ回数だけ、繰返されているはずである。

 モノが現に存在することが、当人にとって意味をもって認識されるようになるには、単にそこにあるというだけでは充分ではない。
モノが目玉に映っても、モノの存在は認識できない。
モノを知るためには、それが何であるかを知る必要がある。
少なくともヒトが動物的な地平から、離れるためにはそうする必要がある。

 ヒトは誕生後、約一年で直立歩行をはじめるが、まだ言語をあやつれるようにはなっていない。
しかし、すでに彼(女)にはさまざまな感覚が存在している。
たとえば、痛いという感覚である。これはおそらく生れてすぐの感覚であろうが、痛いと認識はされていない。
ある種の感覚によって、痛さを不快なものとして反応し、肉体を動かすだけである。

 この時代には、ある種の不快感(=痛さ)と、痛いという認識のあいだには、何の関係もない。
なにかに触れたとき、痛いと感じて手を引いたといっても、これは事実の後付け表現=動作にしかすぎない。
ときどき錯覚しがちであるが、痛いという感覚は、痛いとして身体に感じられるのではなく、ある種の不快感として、身体に感じているだけである。

 成人したヒトにあっても、ことはまったく同様である。
痛いと感じたから手を引いたのではなしに、手を引いてから痛いと感じている。
ただ、そのときの不快感を、痛いと表現しているにすぎない。
それが言葉をあやつれない幼児にあっては、もっとはっきりしている。
言葉の体得以前に、彼は存在しているのであり、感覚をもっている。

 幼児の感覚を想像してみるに、単に痛いという感覚だけではなく、例えば何かひきつれるような感じとか、圧迫されるような感じとか、さされるような感じとか、さまざまな感覚が重なって、痛いという不快感を成しているのではないかと思う。
それを痛いと表現するようになるのは、その単語がその感覚を表現する約束であると知ってからである。

 ところが、感覚は非常に複雑で、多様にヒトをおそうが、これを痛いと表現した時、実は痛いという抽象的な感覚として表現している。
それゆえ、その多様さをすべてそぎ落して、ただ痛いという一つの単調な単語で表現するとき、本来その単語によって表現されるべき感覚の生々しい部分は、ほとんどすべてぬけ落ちている。

 感覚が言語で表現されるとき、じつは体感している生の感覚ではなしに、痛いという約束事が表現されるに過ぎない。
それはまだ言語をもたない幼児の行動を見ていると、よく判る。
彼(女)等は痛いと感じたから、次の反応を起こすわけではない。
もっと生の感覚によって、つまり言語以前の感党によって反応している。

 やがて幼児は、痛いという単語を知るようになる。
そして、以前と同じ不快感にたいして、ただ泣くだけはなく、痛いと表現する。
単語の数が少い年少時にあっては、ただ痛いとだけ表現しやすく、それをもって当人はその感覚を表現していると錯覚する。

 成人にあっても、痛いという感覚が、ヒトにとって個体維持の直接的感覚であるため、痛いとだけ表現しがちである。
しかし、なにか複雑で多様相な感覚を、痛いとだけ表現したとき、じつはまた、自己もこの不快感を痛いと認識するのである。

 体感された生の感覚それ自体は、自己にはなんとも認識しようがないものである。
限界以上の痛さにおそわれると、言葉を失って気絶するだけだろう。
生の感覚を捨てさることによって、その感覚を認識し、表現する。
ひきつれるような痛さとか、刺されるような痛さだとか、痛さにもたくさんの種類があるのは、周知のとおりである。

 外的環境が、当人に多大な影響をおよぼすのは、オオカミに育てられたヒトの子の例を見るまでもなく明らかである。
ヒトは誕生から1人でおかれた場合、たとえ生存できたとしても、自己の感覚を抽象して知ることはできない。
1人でおかれると、たとえ生存できても、言葉を体得できない。

 言葉の体得には、必ず他者が必要である。
言葉のない世界には、ただ生の感党が存在するだけである。
ヒトは他者から、言語を投げかけられることによって、豊穣な感覚の世界から、認識の世界へと成長してくる。

 自己を自己であると認識する過程は、他者から投げかけられた言語を、自ら投げ返すことによって徐々に形成される。
他者から言語を投げかけられるほうが先だとしても、やがて、自らも言語を進んで発っするようになる。
その過程で、今まで眼前に並んでいたものが、当人にとって例えば自動車だとか、人形だとかいったように、意味をもった存在として認識されるようになる。

 自動車というモノにむかって言語を発っして、それを自動車として限定したとき、それは同時に自己にはね返って、自己の中に自動車という概念が獲得される。
つまり、自己の中にある自動車というモノに対するイメージを、自動車として確定する。
自己の内なる自動車は、それ自体として初めから存在するのではなく、認識することによって自己の自動車となる。

 自己が自動車を知ることができても、自動車は自動車として、自己に語りかけてきたわけではなく、別の自己(=他者)によって、もたらされた自動車である。
じつは自己が発っする言語は、別の自己との間に生み出されたものである。
ヒトがそれをそれとして認識する過程は、モノと自己との間ではなしに、自己と他者のあいだでの往復過程において発生する。

 自己があるモノを自動車だと思っても、他者たちが違うと考えていると錯誤だということになる。
もちろん、自己にとって自動車が自転車でもかまわないのだか、現実的にも論理的にも自己のなかで、自動車を自転車と呼ぶような概念形成がなされることはない。
他者間において共有された約束事として、自己のなかへ言語は登場してくるわけだから、その当人が生活している世界が変化しないかぎり、約束の中身はふつうは単一である。

 生まれたヒトは、それゆえ白己の感党を他者にぶつけることによって、共有された約束事を他者から受けとる。
その結果、その約束事を他者へも投げかえし、また、その反射を受けとる。
言語は他者へと発っせられるが、同時にそれは反射をともなって、自己そのものの確定となる。
事柄はどんな領域にあっても同じである。

 自己の形成はこうした道程を経てなされるわけで、それは言語の獲得と、ほとんど平行の位置にある。
言語の体得が、自己形成の過程だといっても過言ではない。
言語を使うことによって、豊饒の世界からますます遠ざかるわけだが、ちょうどその分だけ認識することになる。
つまり、生の感党を切り捨てることによって、拡大してきた認識の領域は、自己をより知るための過程であったはずである

 自己を見つめる過程も、じつは言語という他者を経由して考えられている。
自己は生の感覚としての存在から、言語を使うという抽象の次元を上げたとき、認識された自己へと確定される。
認識された自己が何であるのかは、自己が他者との関係のうえに成立しているので、自己そのものの切開を続けても発見することはできない。
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