認識×6+忘我論   第6−1回
1982年〜「花泥棒」に連載

第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
    
第6回    他国を遠望して   その1
−承前−
 世界中にはさまざまな価値観があり、人は多様な価値観にしたがって生活している、と言われる。
ここで使われる価値観という言葉には、2つの使い方があるように思う。

 まず第一には、貴方と私は別の人格であり、別の好みや趣味をもったり、異った生活信条をもっているというように、同じ一つの社会での、自他に対して考え られる価値観がある。
同じ社会では、ふつう同じ言葉で喋りあっている。そのため、自他のあいだの違和感はあまり感じることはない。

 何か事件にであって、その時の対応が異なったりする時に、はじめて「あいつとは生き方が違う」などと驚く。
よりわけ日本語の社会は、感覚や価値観は自他 ともに同じである、という前提から話が始まることが多い。
だから、特異な場にであって、あらためて価値観の違いを、実感しなおすことになる。

 さまざまな価値観の違いの、もう1つの使いかたは、国の内外を境にしてあらわれる。
地球上には、自分たちとは違ったや宗教、生活習慣をもった人々が、地域別、国別に生活している。
他国にすむ人は、異なった価値観をもっているだろう、といったように用いられる。

 テレビや新聞で、外国のニュースを見るとき、自分とはまったく無関係の人々が、自分の理解範囲をこえたところで、事件をおこしていると感じることがある。
その時に自分では理解できない、または理解しようとする興味がおきない事柄に対して、いろいろな価値観をもった人々がいる、と自分を納得させる。

 <時と共に>では時間をこえて、同じ民族が同じ資質をもち続けるのは、<約束された価値>としてである。
それゆえ、同一民族を無前提的に連続したもの、 と考えることはできないと述べた。
<時と共に>が、いわば時間に対する考察であったのに対して、今回は同時代に生きる人々の、価値観の形成について考えてみたい。いいかえると空間に対する考察である。

−世界は多様か−
 一見すると、たしかに世界中には、さまざまな皮膚の色をした人がいる。
また、いろいろな言語、宗教、生活習慣などが、存在するように見える。

 人たちは、人種や信じる宗教の違いによって、戦争という人殺しをすらしてきた。
争いの歴史を見ると、同じ場所に住む人々の同質性や連続性を当然とし、反 対に異った場所に住む人が違うのを、当然とする気にもなりやすい。
こうした常識を生み出したのも、不思議ではないように思えるかも知れない。

 ところで1人の人が、一生のあいだに言葉をかわしあう人数は、一体何人くらいいるのだろうか。
また、異った言語や、宗教、生活習慣の違う人々とふれ合う機会は、どのくらいなのだろうか。
国際結婚が増えたとはいえ、言葉をかわす人の数は、じつはそんなに多くはない。

 人は一生のあいだに、それほど多くの人と言葉を交わすものではない。
にもかかわらず、見知らぬ世界を、別の価値観の支配するところだと決めてしまうの は、早計なのではないだろうか。
私たちは物事にレッテルを貼っただけで、理解した気になってしまう傾向がある。
私たちは国外を良く知らないのが事実であろう。

 今まで筆者は、具体的な1人の人がどう考え、どう認識するかを、個人の次元から考えてきた。
人がものを考え、認識するのは、個人においてでしかない。
認識の方法を、当人が自覚しているか否かは判らないが、言語の体得方法が同じである以上、認識の方法はすべての人が同じだろう。

 本論はヒトが認識するのも、言語を獲得するのも、誰もが同じ道をたどる、と前提してきた。
そして、言語を身につけるという、同じ過程をとおって、成人となるはずだと前提してきた。
そして、同じ過程をとおるにもかかわらず、各人がさまざまな考えをもつに至るのは、単に体験の違いによるのであると考えてい る。

 生れた時から、あるヒトとあるヒトをまったく同じ体験のもとで育てると、同じ認識にたどり着くと考えている。
(ただし、遺伝的条件を別としても、1人の 存在がもう一方へと互いに反射しあうから、まったく同じ体験をするのは、論理的には絶対的に不可能ではある)
人の一生は、一回きりのものだから、同じ環境は設定できない。
しかし、1人の人を想定するとき、同じ環境におかれると、人の認識は同じように形成される、と前提している。

 世界中には多くの価値観があると語るとき、その語った当人の位置は、どのあたりにあるのだろうか。
当然のことながら、現実には価値観という名前の価値は存在しない。
具体的に、選挙とか、仏教とか、金権崇拝とか、男尊女卑など、といったかたちで存在する。
具体的な事件に出会って、さまざまに判断するとき、 はじめて価値観が判明する。

 たとえば選挙を考えてみてよう。
1人の人が、選挙で選択をせまられた場合、同時に2人の候補者を選ぶことはできない。
価値観は一つしか選択でない。
いろ いろな価値観が存在するといっても、そんなことは1人の人にとっては、ありえないことなのだ。
こう語るとき、価値観は人とは別のもの、価値観自体の自立を当然のこととしている。

−自己肯定−
 価値観は、それ自体で存在するように見えるけれど、そんなことはない。
つねに生身の人に支えられ、担われている。
そして、同時に二つの価値観のもとで は、人は生きることはできない。
たとえば、仏教徒であり、同時にキリスト教信者であることは不可能である。
にもかかわらず、世界にはさまざまな価値観があると語るのは、重さのない言葉を語ることであり、当人にとっては何の意味もない。

 人はつねに自己を納得させ、自己に対して自己正当化し続けなければ、生きていけない。
自己を絶対の悪と思い知って、生き続けることはできない。
極悪非道と呼ばれる殺人犯でも、内心では何らかのかたちで、自己正当化をしている。

 環境がどのように変ろうとも、その環境に適応しようと人は生きる。
一般に悪とされていることをしても、悪いことをするのは仕方のないことだと言って、自ら納得せざるをえない。
その上、人は反省という確認を知っている。
反省することによって自己を正当化し、自己の崩壊から自己を救済する。
極悪非道の殺人犯でも、自己正当化することは、なんのかわりもない。

 絶対の悪と自ら意識して、それを実践し続けることはできない。
他人が見るとどんなに悪いことと思えても、その当人にとっては悪いことではない。
自分の行為を肯定しなければ、人は生きていくことが不可能である。
それゆえに、1人の人にとっては、実践できる価値観はただ一つである。
個人にとって価値観の並立はない。
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