認識×6+忘我論   第5−1回
1982年〜「花泥棒」に連載

第1回 神・仏・人
第2回 擬制の血縁
第3回 性差を越えて
第4回 約束された価値
第5回 時と共に
第6回 他国を遠望して
第7回 忘 我
   
第5回   時と共に    その1
−承前−
 世界中を植民地と化した西欧近代は、経済的もしくは軍事的に、強力であったばかりではない。
自我を基底とする世界観、いいかえると歴史と現実を全体的につかむ哲学=精神を生みだした。
そのために、私たちの明治以降は、全面的に西欧近代に浸食された。

 東洋の精神・西洋の芸術(技術)、と佐久間象山は言った。
しかし本来、精神と技術が切りはなせるはずはない。
物の生産や技術は必ず精神に支えられている。

 日本の文化や伝統をいかに賞揚しようとも、西欧近代に日本が浸食されたのは、単に技術や物質的な面にとどまっていたのではない。
全的に人間存在それ自体が、精神的にも占領された。
このことは、反論の余地がない。

−歴史と伝統−
 精神と物質を、切りはなして考えること自体が敗北だった。
そして、それを自覚しなかった私たちは、本当にみじめだった。
たとえば明治以降、私たちは民族衣装である和服をすてて、洋服を着るようになった。
着物から洋服にかえた理由を、和服は非活動的である、機能的ではないと理解する誤りをおかした。

 ちょっと考えてみれば、和服が非活動的だとする理由はどこにもないと判る。
私たちの先祖は、和服を着て労働をしたのだし、和服のままで合戦をやった。
これを見ても判るとおり、和服の機能は何ら不自由なものではない。

 和服を着なくなった今の私たちから見ると、和服はやっかいなものに感じられる。
しかし、労働着としての和服も、ちゃんと存在した。
和式の礼服はたしかに 非活動的だが、平服は激しい活動にも充分に適応する。
化石化した現在の和服だけを考えるから、やっかいな衣服だと思うのである。

 股引と呼ばれる和風ズボンは、現代のジーンズなどより、はるかに軽快に動くことができる。
また、剣道や空手などの稽古着は、動作によく適合している。
むしろ、和服とその体系は、洋服にくらべて着る人の体形を問わないとか、脱いだとき薄くたためる等の理由によって、洋服より機能的ですらあると思える。
西洋人の旅行カバンの大きさを見よ。
洋服は何と非合理的であることか。

 明治になって、私たちの先祖が和服を捨てたのは、和服の機能を充分に考察した結果ではない。
和服それ自体ではなく、西洋近代に迎合するために、和服がもっている価値体系を捨てたのだ。

 機能的に劣っていたから和服を捨てたのではなく、和服という価値を捨てて、洋服という価値を選んだのである。
和服が日常から、ほとんど消えてしまった現在となっては、もはや和服の体系を想像することも困難になっている。

 そんな現在、和服の伝統が見なおされている。
およそ非活動的と思われる、川久保玲のデザインする洋服が話題となっている。
彼女の服が、国の内外で売れている。
彼女の服は、西洋風の体形にしたがう服の系列とは、あまり関係ないところからの発想であることが判る。

 食べ物にしても和食を捨てて、洋食へと移りつつある。
和食が栄養的に劣るので和食を捨てたのではなく、和食という価値体系を捨てつつある、と認識すべ きなのである。
日本人全員が、米を食えるようになったのは、戦後になってである。
こんなことすら忘れている私たちは、何とお目出たい人間であることか。

 食生活は親から子へと伝えられ、変わることの少ない分野である。
にもかかわらず、食文化は急速に西洋化している。
それまでの食生活の体系を、全体的に放棄している今の私たちは、かならずその帳尻を合わせるようにしむけられる筈である。

 しかし、自我という衝激に出合った私たちは、もはや時代の歯車を逆にまわすことはできない。
そして、江戸時代や、それ以前の時代を真実味をもって、想像することはとても困難になっている。

−職人たち−

 明治以降、私たちは洋服を選んだ。
朝、目が覚めたとき、洋服に手をとおすというかたちで、日々洋服を選んできた。
明治以前の人々も、当時は和服しかなかったとはいえ、毎日、和服を選び続けた。
そして、日常を生きた。

 時代をさかのぼって、奈良時代を考えてみる。
衣食住のうち衣食は、そのままでは保存されにくいが、建物はそのままのかたちで残っている。
とりわけ寺院建築は、奈良時代に建てられた建物が、そのまま現在にも残っている。

 奈良時代の寺院は、どのように建築されたのであろうか。
石や木をきりだし、瓦を焼くといった技術的なことは、ほとんど明らかになっている。
当時だって、 それほど難しいことやったわけではない。
現在でも同じものを作ることはできる。
しかし、それを作る人の心持ちは、ほとんど無関係といっても良いくらい、現在とはかけはなれている。

 奈良の建築群は、おそらく自己という意識をもった職人や、棟梁によって造られたのではない。
何かしら偉大なもののために建築されたのであろう。
それは 自我という個人の頭脳が考えだしたものではなく、偉大なものの前に生かされている人の、敬虔な営みの一つにすぎなかったはずである。

 現在の私たちも、建築する時は土をこねるとか、木を切るとか、奈良時代の人たちと同様の作業をしている。
電動工具などの登場が、すこし違う風景を生みだしてはいるが、建築の作業はおおむね同じである。
しかし、建築に従事する彼等と私たちでは、まったく違う心的情況にある。

 いままで筆者は、西欧近代におかされた、現在の私たちの認識を考えてきた。
神の死以降に、認識の論理を、いかに成立させ得るかと考えてきた。
いかに近代になって、人が自己の存在をしっかりと手応えをもって認識できるか、その途を求めてきた。

 近代の自我は、人と人のあいだに成立する。
そのために、神を排除するものだし、絶対を求めて相対の世界をさまようものだ。
自我とは、卑小な近代そのものである。
近代が人に固執するがゆえに、人の限界を自認するのに対して、奈良の人は自己を自己として認識せず、超絶者=神への投影として自分を存在させた筈である。

 奈良の職人たちは、無限へ連らなりえた。
近代を選んでしまった現代人にとっては、神の庇護はもはや当てにできない。
同時代を生きる人が、まぬがれることのできない恐しい事実、つまり最優等だけが残っていく唯一の価値である、 とする歴史的現実ときちんと向い合う作業を続けていこう。
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