母殺しの思想−フェミニズム誕生の意味するもの
    匠 雅音著 2001.8.20
目  次
1. はじめに 7.ウーマニズムな女性運動
2.農耕社会から工業社会へ 8.フェミニズムの誕生
3.神とその代理人たる父の死 9.子供の認知と母性愛
4.新たな論理の獲得 10.母殺しの意味するもの
5.機械文明の誕生 11.おわりに
6.電脳的機械文明の誕生  
                 
3.神とその代理人たる父の死  その2

 1500年代の初めになると、西ヨーロッパでは新しい信仰の運動がおこった。
強大になったこの運動は、神が人間を考えるのではなく、人間が神を考えるものだった。
そのため時代が下るにしたがって、神は人間の数ほどにも多数に分裂し、人間はたくさんの教団を形成した。

 今や事情が変わった。
神が人間を創ったのではなく、人間が神を絶対善として、神のあり方を決めるのである。
無条件に神に頼ることはできなくなったので、宗教革命は不可避だった。

 神が絶対善だとすれば、絶対悪つまり悪魔の誕生も必然だった。

 「神はサタンを創造し、人間を誘惑して破滅させる力をあからさまにさずけてさえいる」*10

とJ・B・ラッセルはいう。
神を絶対善にすることは、同時に、堕ちた天使が絶対悪の悪魔として登場する。
絶対善と同時に悪魔を知った人間を、神は寛大に許容することはなくなった。
1500年代の後半から1600年代へという近代の入り口で、西ヨーロッパを襲った恐ろしい現象が魔女刈りである。

 「古代の神々が追放されキリスト教が支配を確立する中世初期、歴史の薄闇の中にその姿を現す。やがてルネッサンスに至って、苛烈を極めた異端糺問により、おびただしい数の魔女が焚殺された」*11

というミシュレの言葉のとおりに、悪魔と交わったという疑惑により、神や正義の名において拷問がおこなわれた。
人間を守ってくれるはずの神が、隣人たちの命を奪ったのである。

 工業社会は都市を指向し、自然そのものだった農村を捨てようとしていた。
後年になってニーチェもいうように、神と別れたここで人間は神を殺したのである。

 「おれたちが神を殺したのだ―お前たちとおれがだ! おれたちはみな神の殺害者のだ!…世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、…おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?」*12

 神が支えていた知の体系が、疑いを知った人間によって無力化し始めた。
そのためこれ以降、知は長い経験の支えから、ゆっくりとだが離れ始めた。

 神を殺したことは、同時に神の代理人たる父が死んだことでもあった。
伝統的な農耕社会から、産業革命を経て工業社会に至るとき、神によって体現されたそれまでの価値の体系を過去のものとして葬り去った。
それは人間の神からの自立であった。
ここでは神の助けはもういらなかった。

 父は神の代理人だったから、父も不要になった。
父が死んだというより、神と一緒に父を殺したといってもいい。
土居健郎は次のようにいう。

 「父なき社会…のような社会的変化の種は19世紀に…撒かれていた…彼らはそれまで一般に信じられていた価値基準を粉砕し、来るべき社会変革を準備した…日本も父なき社会と呼べるような状況に明治以降入っている」*13

 成人男性は神の支えを脱ぎ捨て、ヒューマニズムという人間中心主義で身を固めて、自分の足で立った。
誰にも奪うことのできない基本的人権なる概念を誕生させ、男性は基本的人権で身を固めた。
神が支えた農耕社会の倫理は、大きくヒビが入り、もはや信頼にたるものではなくなった。
近代の精神が希求されたが、工業社会の歴史は、いまだ創られてはいなかった。

 有閑階級とでも呼ぶべき特権階級が輝きを失った。
ブルジョワという人権を纏った市民による、血に染まった革命の嵐が吹き荒れた。
男性は市民革命の中で、自分たちの人権を絶対のものとして鍛えていった。

 特権階級以外の人々が、大衆として社会の前面に登場するかに見えた。
しかし、大衆が主役になるのは20世紀に入ってからであり、この当時いまだ大衆は社会の主役とはなれなかった。
そのため、そこにあるのは大きな混沌だけだった*14

 近代と神という話になると、近代化つまり工業化は西ヨーロッパで始まったので、おのずとキリスト教の神を思い浮かべる。
キリスト教が近代化に果たした役割は多大なものがあり、両者の関係を多くの人がさまざまに論じている。
近代ヨーロッパの歴史を反芻してみれば、キリスト教とその神のあり方をたどらざるを得ない。

 しかし、近代的な工業社会が、日本そして東・東南アジア諸国と、西ヨーロッパ以外でも実現され始めてきた。
今や近代化は、西ヨーロッパだけのものではない。
アジア諸国が近代化しつつある事実は、宗教としてのキリスト教を持たなくても、近代化は可能であると見るべきである、と語っている。

 ギリシャ正教をもちだすまでもなく、キリスト教は西ヨーロッパにだけあったのではない。
キリスト教の存在が、自動的に近代をうみだしたのではない。
近代化を支える精神が何かあったとしても、キリスト教と近代化は別次元の現象である。

 本論は近代化を、西ヨーロッパから切り離すことによって、近代という概念を抽出する。
そして近代化を、それぞれの固有の大地から切り離されたものとして考え、一般化して論じるものである。 

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