「単家族」の誕生−新たな時代への家族論
「単家族」の誕生

目  次
はじめに−等価なる男女
第1章 家族構造の変遷
1.農耕社会の属性 2.家庭と仕事の分離 3.有償労働の成立
第2章 家庭内労働の分離
1.家事労働の衰退 2.家事労働と子育て 3.単家族の成立

第2章 家庭内労働の分離

3.単家族の成立

 農耕社会では個人なる概念はなく、男女すべての人間が生産組織である家に、大家族の一員として属した。
ここでは男性も女性も、個人では収入の道はなかったので、家を離れては生活ができなかった。
つまり群れとしてしか生活できず、一人では生活ができなかった。
男女ともに、家を形成するなかでしか、生活することができなかったのである。
言い換えると、既婚・未婚を問わず誰も家からでることはできなかった。
家からでるのは、他家の人間と結婚するとき、そして他家に養子にいくときだけであった。
いずれも家をでても、また他の家に入りなおしたのである。


 工業社会に入り、個人が収入を得ることができるようになったが、ここでは一人前の給料がでる職場は男性にのみ用意された。
この時、女性には終生にわたって収入の道を確保する場はなかった。
だから、女性は一人では生きていけなかったのである。
女性は必ず結婚し、男性の伴侶とならなければ、生活ができなかった。
収入のある男性と収入のない女性という組み合わせ、つまり核家族が成立せざるを得なかった。
工業社会では、大家族ではなく、核家族が社会を構成する単位となった。
農業社会から工業社会への転換は、男女すべての個人を対象とした社会になるには、まだ生産力が低かった。
しかし、工業社会は明らかに農耕社会より、生産性に優れた社会だった。
それゆえに、工業社会は農耕社会を駆逐して、急速に普及した。


 大家族から核家族になって、群れの数つまり大家族の数こそ減ってきたが、全体の人口は増えたのである。
大家族が核家族へと分解することによって、世帯数はふえた。
そして、より多くの人間が、豊かに生活できるようになったのである。
生産性の向上には、核家族が見合っていたから、工業社会の発展とともに、核家族は増えてきた。


 大家族が解体した工業社会では、子供は対なる男女が作る核家族のなかでしか存在しようがなくなった。
そして、農耕社会の子育て観に変わって、工業社会の子育て観が、社会に誕生した。
つまり子供は、終生の一夫一婦制という結婚制度のなかにおいて、男性と女性の自然の営みの結果生まれるもので、大家族のなかではなく、対なる男女が育てるのが望ましいという価値観である。
自然や地域を背景とした大家族が、充分に機能していた時代には、何人もの子供を受け入れる余地があった。
しかし、対なる男女が構成する核家族には、収入をもたらす者が一人しかおらず、たとえ裕福な家庭でも、きわめて脆弱な経済基盤しかなかった。
家族の存立基盤と構造が変質したにもかかわらず、子育ては家族の仕事として残った。


 今日の職場労働は、コンピューターに制御された機械が導入されたおかげで、屈強な肉体の力をそれほど必要としなくなった。
そして、職場労働もブルーカラーと呼ばれる肉体労働から、ホワイトカラーとよばれるデスクワークが多くなってきた。
ここでは腕力はまったく不要である。
今日、情報社会の入り口にいたり、非力な人間でも勤まる頭脳労働の比重が高い職場もふえた。
コンピューターの普及は限りがないから、今後女性の職場進出はますます増える。
女性も終生にわたって働くことが可能になった。
情報社会では、家庭での家事労働がゼロに近くなるので、職場労働をして収入さえあれば、男性でも女性でも一人で生きていける。
女性は職場労働に適合的ではないとして、女性総合職の退職がマスコミをにぎわすが、彼女たちの勤続年数は、一般職の女性より長い。
総合職一期生が、現在も企業にとどまっている割合は、一般職が24.6パーセントであるのにたいして、41.3パーセントである注-24


 工業社会から情報社会への転換に直面し、生産基盤は土地ばかりではなく、物からも離れようとしている。
工業社会では、知識や情報がそのままでは有償とは見なされず、物にのって、もしくは物を加工する技術として評価された。
つまり知識や情報は、物に置き換えられて評価されたのである。
工業社会は、物が支配する世の中である。
物の生産が価値だった時代には、屈強な肉体が不可欠だったが、情報社会では肉体は不要である。
ただ明敏な頭脳の持ち主が必要なのである。
頭脳労働は、きわめて個人的なものであり、非物的な作業である。
むしろ物との固定的な対応関係が、自由な発想を妨げてしまうのである。


 情報社会での労働には、屈強な肉体はまったく不要で、ただ精神的な集中力が要求される。
情報社会の生産労働とは、それを担う者として男女を問わず、性を越えた個人が直接に対応する。
核家族では、女性が男性を通して生産労働と結びついたが、それは非力な女性が男性と同等に生産労働を担えなかったからである。
しかし情報社会では、女性も男性と同等に直接生産労働を担う。
ここで女性が、男性に養われる必然性を失ったのである。
男性と女性はまったく同じ立場で、生産労働を担うがゆえに、男女が対になることは必ずしも必要ではなくなった。


 工業社会の核家族のように、女性が専業主婦として家事労働を担い、男性を通して生産労働につながるのでは、女性の頭脳が死蔵される。
もし、女性的な特性があったとして、それがどんなに優れていても、家庭にいる限り広まりようがない。
情報社会の労働市場は、直接個人を指向せざるを得ない。
つまり、個人が労働市場と直接に結びつけるような、家族形態を指向せざるを得ない。
換言すると、物の生産に適合していた核家族では、情報社会の生産労働が機能しなくなる。
男性は女性を背負い、女性は男性に背負われる家族形態は、頭脳の自由な発想を妨げ、情報社会の生産性向上に障害となるのである。

 家庭と仕事が渾然一体だった農耕時代から、工業社会になって仕事と家庭が分離した。
そして、情報社会へはいる今ここで、生きていくためにせねばならない家事労働が消滅し、生活を支えた家庭の役割が消滅しようとしている。
男性も一人で生活できるし、もちろん女性も一人で生活できるのである。
今や生活していくために、男女が共同生活をするのは時代錯誤となった。


 農耕社会から工業社会への転換が、大家族から核家族を生ませたように、情報社会への突入は核家族の分裂を促す注-25
個人を核とする新たな家族形態、つまり単家族を生みだそうとしている。
生産にかかわらない女性が、男性に背負われるという形ではなく、男女ともに生産労働に直結する家族形態となるのである。
換言すると、核家族が男女の対を単位としたとすれば、単家族は性を問わない一人の成人がその単位である。

 工業社会になっても、大人数の家族は残ったように、もちろん、情報社会になっても男女が同居する家族がなくなるわけではない。
今日でもかっての大家族のように、大勢で住んでいる人々もいる。
しかし、今日大勢で住んでいる家族を、収入源が一つだった以前のような大家族とはいわない。
今日の大家族は同居していても、それぞれの世帯に所得があり、別々の家計を営んでいる。
だから、それらは二世帯同居と呼び、その住まいを二世帯住宅という。
今日では、大勢で住んでいる家族でも、戸主を長とした大家族ではなく、核家族が複数同居していると見なしているのである。

 工業社会が、次の段階としての情報社会を目前にするにつれ、異なった性と対をなさず、核家族を営なまない人々が登場してきた。
工業社会では一般的であった核家族での子育てを、選ばない人々が発生してきた。
つまり個人を単位とする社会原理へと移行を始めたのである。
それは、個人を単位とする家族、つまり単家族の誕生である。
戦後、標準家族とも言うべき夫婦と子供二人の四人世帯が、1980年までは最も多かったが、1980年を境にしてそれは急速に減りはじめた。
そして、1950年には4パーセントしかいなかった単身世帯が、1990年には四人世帯をぬいて、いちばん多くなった。
1995年現在、すでにわが国は四軒に一軒が単身生活者である注-26


 単家族の原形である単身生活者は誕生したばかりで、世代交代を経験する時間をいまだ経ていない。
もちろん現在の単身生活者が、そのまま終生の単家族となるわけではない。
しかし今や、農耕社会には存在しなかった単身生活者がもっとも多いとは、言い換えると男性も女性も個人のままで、一生を過ごすことができるのである。


 単家族がふえ、それが時代の主流となるなかで、工業社会のそれのように、一対の男女が同居する形態も残る。
しかしそれはもはや、工業社会の核家族ではない。
独立した二人の個人が、同じ空間に住むというだけであり、男女が同居しているといっても、社会単位としての核家族ではない。
一対の男女が同居しているといっても、単家族が二組同居しているだけであり、いうならば単家族の二世帯同居にすぎない。
単家族が増えるにしたがって、時代の変遷と共に大家族が主流ではなくなったように、核家族も大家族と同じ道をたどる。

 社会の構成単位が、どんな家族を基礎としているかは、課税の制度を見るとよく判る。
農耕社会では、家が課税単位であり、戸主が代表して税をおさめた。
そして、工業社会にはいると、どこの国でも、核家族を課税単位とした。
わが国より時代の先をいく西洋社会も、かっては対なる男女を核とする夫婦単位で課税していた。
1971年スウェーデンでは、夫婦単位から個人単位へと課税の基礎を移した注-27
これによって核家族といえども、担税者が二人同居していると見なすようになった。
つまり、単家族が二組同居していると、みなし始めたのである。


 わが国ではいまだ、特別扶養控除などといった女性に対する差別=保護を内包した、夫婦合算の核家族を前提とした課税体系である。
この課税制度は、主婦は夫たる男性の保護下にある人間だ、と見なしていることに他ならない。
配偶者控除や配偶者手当は主婦の座の保護であり、それは夫たる男性の保護と同義だという認識はずいぶんと広まった。
核家族の温存は、働く人間の勤労意欲をそぎ、男女の平等に逆行するものである。


 単家族の登場は、専業主婦を優遇する税制を飛び越える。
単家族は、男女が完全に平等である。
夫婦別姓が取りざたされるように、わが国でも個人を単位とした課税体系へと、早晩移行していくであろう。
近年わが国では、家族の崩壊が取りざたされている。
たしかに、核家族という家族がはたしてきた役割は、減少しつつあり、それにともなって、核家族という家族形態は減少しつつある。
しかし大家族が、工業社会で核家族へと移行したように、核家族は、情報社会に適合した単家族へと移行しているにすぎない。
ここでも、次世代を生むという家族の役割は、相変わらず家族=単家族の役割として残っているのである。


 農耕社会では、家族の全員が生産労働に従事する大家族でないと、農業はできなかった。
そして工業社会では、女性は結婚しないと生活する道がなかったがゆえに、核家族は不可避だった。
しかし、今や誰でも一人で生活できる。
もはや一人で生活できないから、結婚するのではない。
男女が結婚して、家庭を作る必然性はなくなった。
情報社会でも家庭は存在するが、必ずしも対なる男女が家庭を作るとは限らない。


 情報社会では、文字どおりの単家族として、成人が一人で子供を生み、一人で子供を育てる人もいるだろう。
また、対なる男女ではなく三人以上の人が、精神的なつながりを求めていれば、その住んでいる場所も家庭に違いない。
そして単家族が、二組以上同居することもありうるし、同性の単家族が家庭を作ることもありうる。
同性の同居は、西洋諸国ではすでに多く見られるが、1996年12月アメリカのハワイ州では、同性の結婚を法律的に認める判決がでた注-28
そしてもちろん、年齢の離れた、つまり世代の違う単家族が同居する家庭の形態もある。
情報社会では、一人でも生活はできるけれど、一緒に生活するのが楽しいから同居する、そういった人々の生活の場が家庭となる。
単家族を基本とする社会は、核家族を基本とする社会より、家族の結合規範として、さまざまな選択が許されるのである。

 情報社会では、職場労働に性別はない。
男性も女性も同じように働くことができる。
誰でも独力で生きていける。
同様に、せねばならない家事労働という拘束もない。
工業社会から情報社会に入り、男性にとっても女性にとっても、日常生活を支えるための、誰かがせねばならない強いられた家事労働の場という意味では、家庭の存在価値は消滅にむかう。
家庭は、精神的なつながりのためにのみ、必要とされるに過ぎなくなる。
そこでは、男性も女性もすべての人間が、フルタイムの職業人であり、フルタイムの家庭人である。


この続きは→→→核家族から単家族へ (丸善ライブラリー)

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